安全・安心に対する科学技術
私は、ヒトがウイルスに感染したときに、どのように組織が壊されて、どのように命がなくなっていくのかを、ずっと研究してきました。つまり、病気になったヒトや動物の病理材料をじかに調べてきたのです。
標題にある通り、「感染症の克服」は容易ではありません。人類の歴史は、人類が発生して以来、感染症との闘いであり、非常に困難を極めて現在に至っています。「安全」については、ある程度は数値化できますが、「安心」は個々人の心の問題であって、推し量ることは極めて難しいものです。では、そうした中で、「科学技術は何をなし得るのか?」。科学技術といっても、1+1=2といったコンピューターの論理は通用せず、感染症というヒトの泥臭いことが絡まってくるので、そう簡単にはいきません。今日のお話の背景として、私が何をやっていたのかを、まず、お話ししましょう。
感染症との関わり
大学院時代は、東大医科研でインフルエンザ、日本脳炎、ヘルペスウイルス疾患の感染病理について勉強していました。大学院を終えてすぐに、天然痘に関わりました。インドやバングラデシュで展開されていた、世界保健機関(WHO)の「天然痘根絶計画」に参加したのです。アフリカでのラッサ熱の調査も、米国の疾病予防管理センター(CDC)のチームと一緒にやりました。さらに米アトランタのCDC本部に出入りして、いわゆるウイルス性出血熱(ラッサ熱やエボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、腎症候性出血熱など)の、一般的に「怖い」と言われる感染症の研究を、バイオセーフティ・レベルの一番高い高度安全実験室(BSL-4)で、日本と行き来しながら1995年まで続けてきました。
一方では、サルポックス症の研究もアフリカ・ザイールで行いました。サルポックスは、自然界では野ネズミがウイルスを持っています。ネズミからサル、サルからヒトにも感染し、重症になると天然痘と同じような状態を引き起こします。そのほか、日本にいるときは日本脳炎やエイズ、ヘルペスウイルス、インフルエンザH3N2などの病理学的研究を行ってきました。
また、インフルエンザの皮下接種ワクチンが効かないことに疑問を持ち、1987年に感染病理と免疫の面からの研究を開始し、近いうちに臨床試験に入るところまで来ました。
「バイオセーフティ」についても、私が“言い出しっぺ”となって日本で10年前に学会をつくり、永年責任者も務めてきました。そこでは病原体を取り扱う実験室での安全性の確保や、病院を含めた施設内での病原体の動く範囲も調査し、安全な輸送方法の確立などについても携わってきました。
ワクチン関係では、WHOの「生物製剤の標準化専門委員会」委員を8年間務めています。日本ワクチン学会の設立にも、同好の士と共に関与しました。さらに国立感染症研究所の「病原体等安全管理規定」の作成に取り組む機会もあって、WHOのバイオセーフティ委員会のメンバーを9年間務めています。
新興・再興感染症の由来
感染症はヒトや動物の病気であり、単純ではありません。感染症については「新興」感染症、「再興」感染症という言葉が頻繁に使われていますが、これは1992年末に、米国政府が米科学アカデミーと一緒に出した感染症に対する警告“Emerging & Re-Emerging Infectious Diseases”に由来します。その“Emerging”“Re-Emerging”の日本語訳が「新興」「再興」となっているわけです。
その後、米厚生省やWHOは予算・組織・人・施設等の面で、膨大な資金を感染症対策に投じております。しかし、わが国の流れは逆で、感染症対策への方針は強化されたものの、実際は組織・人・予算の面で削減に次ぐ削減が行われました。国家公務員の一律定員削減方針により、感染症への対応者(大学等での研究者を含む)も激減傾向にあり、問題は逆に増え続けています。
毎年登場する新興感染症
「新興感染症」については、過去30年余りの間に毎年1個ぐらいずつ新しいものが出てきています。ウイルス性疾患としては、例えばエボラなどのウイルス性出血熱やウイルス性肝炎(A・B・C・E型肝炎)、HIV (エイズウイルス)などのヒトレトロウイルスなどがあります。ほかには、オオコウモリが媒体となるマレーシアのニパウイルスや、2003年の春に突然発生して秋に終息したSARS(重症急性呼吸器症候群)、ウイルス性の下痢症、繰り返し出現するインフルエンザ、高病原性鳥インフルエンザなどがあります。
このほか、細菌や寄生虫疾患では15種ぐらいあります。細菌での一番の問題は薬剤耐性菌の出現で、これに対抗する解決法は今のところありません。特に大事なのは多剤耐性の結核の出現で、アフリカを中心に、医療が届かないところで広がっています。ブドウ状球菌や腸球菌などにも耐性菌が出てきています。ヘリコバクター・ピロリについては、胃潰瘍や胃がんの発生に関係していることが分かり、発見者2人が2005年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。寄生虫ではクリプトスポリジウムやサイクロスポーラがヒトの免疫状態の悪いときに感染して、命を奪う原因になっています。
拡大する再興感染症
ウイルスによる「再興感染症」の主たるものは狂犬病です。ワクチンがありますが、宿主域が非常に拡大し、毎年5万人以上の死者を出しています。それから、デング熱およびデング出血熱もどんどん広がりつつあり、日本にも海外での感染者が毎年多数戻ってきています。例えばシンガポールでは、デング熱の感染者がどんどん増えています。雨水を側溝に流して暗渠(あんきょ)にしたため、そこに蚊の増える場所ができてしまったのです。そこから蚊が出ないようにしない限り、デング熱を避けることはできない状況です。
黄熱病にもよいワクチンがありますが、全世界の人に接種するだけの経済的な余裕がないことから、依然として大事な問題となっています。
ウエストナイル熱は、1999年に北米大陸でも発生し、問題になっています。もともと1937年にアフリカ・ウガンダの端(西ナイル)で発生し、ナイル川の上流から下って東欧まで広がっていました。それが次第に東へ移り、今はインド亜大陸まで来ています。日本脳炎の発症地とちょうど交差しています。
原虫による再興感染症では、マラリアですね。依然として年間500万人ぐらいの感染者が出て、300万人余りの方が亡くなっています。これも大きな疾患といえます。
細菌では結核ですね。その拡大にはヒトの行動形態の変化、例えば旅行や交易などが影響しています。
日本の法的取り組み
これらの新興・再興感染症に対して、厚生労働省は明治33年(1900年)以来の伝染病予防法を改正し、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」を1999年4月から施行しました。その中では、医学的根拠に沿った患者の取り扱いと、感染症のサーベイランスに基づいた対策を求めています。その後この法律(感染症法)は、SARS(重症急性呼吸器症候群)の問題が大きくなった際に、動物由来感染症に関する対策や検疫所などとの連携、積極的なサーベイランスの強化を求めて、2003年に再改正されました。さらに平成18年(2006年)には、テロの未然防止のために病原体の安全管理を強化しようと再々改正され、翌年6月から施行されています。それとともに結核予防法は廃止され、この感染症法に統合されました。
近年の感染症の特徴
2009年4月に認知された豚由来の新しいインフルエンザ・A型H1N1によるパンデミック。これは最初、メキシコが発生地として悪者にされましたが、真実は全く違っています。米国では2005年12月からカリフォルニア州でスワインフル(swine ful、豚インフルエンザ)感染者が出ていましたが、公表していませんでした。ところが、世界各国やWHOが今回のパンデミックの問題を取り上げた途端に、2009年5月7日のThe New England Journal of Medicine電子版で明らかにしたのです。
これはつまり、米カリフォルニアで発生したスワインフルが、どんどん南下して広がり、ついにはメキシコとの国境を越えて行っただけの話です。メキシコの医療体制は欧米や日本に比べて弱いので、そこで感染者が拡大してしまいました。たまたまそこで変異が起きたのかどうかは知りませんが、それでメキシコは悪者にされました。そもそも、米国が5年も前から分かっていたことを公表しなかったことに原因があったのです。
今や感染症は、地球上のどこかで発生しても、人や物の移動速度を考えると瞬時に世界中に広がってしまいます。例えば感染力の強いインフルエンザは、大体24時間あれば世界中へ広がり得ます。もはや感染症については、哲学的な問題や政治的対応も含めて、“One World-One Health-One Medicine” という考え方をしなければなりません。
また、感染症には国境がないことも重大です。国境は人間のつくったものであり、昆虫や鳥、コウモリなどは空を飛んで病原体を世界各地に運び、そこでまた新しい感染症を引き起こします。ですから日本で1つの感染症を克服しても、他の国からまた誰かが持って入れば、再び広がります。世界から本当に根絶されない限り、感染症に終わりの日はないのです。
感染症への科学的対応
こうした感染症に対する科学的対応は、徹底した患者の病原体診断を基本にした「サーベイランス(調査・監視)」や「診断」「治療薬剤の開発」「予防に役立つワクチンの開発」、そして「新しい重要・重篤感染症への対応」です。
「サーベイランス」には、患者の発生数だけでなく、実験室できちんと病原体が採れて、遺伝子が分析され、発症原因として特定されるまでを含みます。こうしたサーベイランスは国立感染症研究所ではなく、全国77カ所にある地方衛生研究所が担当しています。
「診断」については、古典的方法に加えて遺伝子検出が行われていますが、遺伝子検出が意味を持つ場合と、古典的な方法でも十分な場合とがあります。「治療薬剤の開発」では、薬剤耐性菌をどうやってクリアするのか、新しい技術を投入していく必要があります。
「予防ワクチンの開発」については、日本は外国に負けていると言われていますが、そんなことはありません。ワクチン開発では、どれだけの患者が出るか、それに対するコストベネフィット(かけた費用と得られる利益の比較)によって必要性が判断されています。しかし、医療アクセス(医療の受けやすさ)の悪いところではコストベネフィットによる判断は意味がありますが、日本のように医療アクセスのよい国では、患者が1人ほどしか出ないのに、ワクチンの副反応によって何人も死ぬような事態が果たして許されるのかどうか、問題となるわけです。予防ワクチンの開発は、ワクチンが求められる疾患に関しては徹底的にやるべきであり、コストベネフィットだけの論理で判断すべきではないと思います。
「新しい重要・重篤感染症への対応」について。特にインフルエンザの専門家は、新型の登場を度々予測しますが、今まで当たった例はありません。インフルエンザとは違いますが2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)だって、誰一人、このウイルスを予測した人はいません。1997年の高病原性鳥インフルエンザ(H5N1)も突然、香港で発生しました。これも、世界中に網張っているインフルエンザの先生方で誰一人予測していた人がいませんでした。2009年の豚由来のインフルエンザ(H1N1)もまた、しかりです。アフリカでは至る所で出血熱が起きていますが、これも「今度はどこで発生するか」と予測できた人はいないのです。
挙げたら切りがありませんが、いわゆる専門家の、特に分子生物学者の予測が当たったことは「全くない」と言っても過言ではありません。地震と同じで、新しい感染症の突然の発生は、現在では予知不可能です。それにもかかわらず、1997年に香港で鳥インフルエンザ(H5N1)のヒトへの初感染があったときも、パンデミックが起きるかさえ分からないのに、厚生労働省が“専門家”と称する方々の後押しで「ワクチンが必要だ」と言い、さらに言論やメディアに影響力のある人が「H5N1のプレパンデミックワクチンが必要だ」と主張しました。しかし、それから14年もたちますよね。
「パンデミックが起きるぞ」という脅しだけでは駄目で、どんな感染症が発生しても、迅速に対応できる準備が必須です。感染症の発生で犠牲者ゼロというのは不可能ですが、その犠牲者の1例から事象をしっかりと把握し、ワクチンの作り方や薬剤の使い方などを研究することはできます。ところが、日本のあちこちに対応できる力があり、準備にハード面、ソフト面のものを少し加えればいくらでも可能なのに、事前には誰もやろうとしないのです。
抗インフルエンザ薬「タミフル」については数年前に、この薬により「子どもたちが精神異常をきたす」として、一部の自称“専門家”の方々による大キャンペーン(薬反対)がありました。今回の豚インフルエンザで、以前とは比較にならない数の患者に投与されましたが、全く問題はありませんでした。
倉田毅(くらた たけし) 氏のプロフィール
1940年長野県生まれ。59年松本深志高校、66年信州大学医学部卒。71年信州大学大学院修了(医学博士)、国立予防衛生研究所病理部研究員、東京大学医科学研究所病理学研究部助手、同助教授。85年国立感染症研究所病理部長、99年同研究所副所長、2004年国立感染症研究所所長、06年富山県衛生研究所所長などを経て、11年から現職。