湯浅さんとフランス
1909年、東京でお生まれになった湯浅年子さん、原子核・素粒子論の急激な発展が相次いだ時代に、物理学に魅せられた日本の先輩だ。私は1937年生まれ。28歳の違いは、第2次世界大戦終了を挟んで、どちら側で青春時代を過ごしたか、大学の門戸が女性に開かれたかどうかの違いとなる。
湯浅さんは30歳でフランスに留学し、憧(あこが)れのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所の所長、F.ジョリオ・キュリーの下を訪れた。
「これこそ私が望んだものだった。女性であることも、異国人であることも捨象されて、ここでは研究だけ生き物のように成長して行く。私は研究したいのですという言葉が、すべてにまさって権威のあるものだった。祖国で経験したことのない魂の自由さを味わった」
湯浅さんのお気持ちは、フランスを異国ではなくわが故郷と感じたのではなかろうか。そして、フランス国家学位(理博)をとる。
しかし、ヨーロッパはヒトラーの率いるナチの脅威にさらされ、1945年にはシベリア経由で日本に戻った。β線分光器をリュックに背負って持ち帰ったという。日本では、東京女子高等師範学校で物理を教えながら、理化学研究所仁科研究室に所属した。そして、1949年、再渡仏する。
原子力をめぐる科学者の苦悩
20世紀初頭は原子力研究の幕開け、それはまた人類の不幸な歴史と二重写しだ。各国の原子力政策への取り組みは、これらの要因によって異なっていた。
レントゲンに始まりキュリー夫妻の放射性元素の抽出、原子の構造から原子核の構造へと、20世紀は急速に原子の世界の探求は深まった。それ以上分けられないと思われていた原子にも構造があり、その中心にある原子核が融合したり分裂したりする。その時交換されるエネルギーが化学反応の100万倍というオーダーだということが分かり、人類の未来のエネルギーだと期待された。しかし、キュリー夫妻の娘夫婦が、そのエネルギーを取り出す方法を発見した時には、迫りくるファシズムの暗雲の中で、それほど楽観できなかった。
アインシュタイン、シラード、ロート・ブラット、優秀なユダヤ系科学者たちは、新天地の米国へと逃避せざるを得なかった。フェルミは妻がユダヤ系で、時すでにイタリアはナチ一色、家族での出国は不可能だった。唯一の機会はノーベル賞授賞式だったという。
彼らは、ドイツが先に原爆を完成させることに危機感を抱く米国政府に進言する。その進言が受け入れられたわけではないが、後のマンハッタン(原爆製造)計画には多くの科学者が加わった。唯一、途中でこの計画を降りたのは、後にパグウォッシュ会議議長となったロート・ブラットだった。こうした世界情勢の中で、ヨーロッパに残った科学者たちの生き方はその国の事情によってさまざま。デンマークにいたからこそできたボーアの生き方は、真実を解き明かす科学者の国境を超えた連携の実例を見せてくれた。
日本とフランス
では、質問を。
「原子力平和利用では、日本とフランスが、抜群にレベルが高い理由は?」
ナチ占領下のフランスでは、「科学の成果を決して武器に使用させない」というジョリオ・キュリーの強い意志に貫かれた抵抗が、フランスの研究所を守り続けた。その伝統が、戦後、原子力の平和利用へとかじを切った。原子力研究所長官として、基礎物理学を重視し、平和利用に徹した政策のリーダーシップをとったのである。これが、フランスが原子力研究で高いレベルを達成するという初期条件をつくった。もっとも、残念ながらフランス政府はその後、原爆開発へと方針転換し、ジョリオ長官を解任したのだが。
それでは唯一の原爆被爆国、日本はどうだったか。戦後、日本学術会議で科学者たちは「原子力の研究・開発・利用」について、「民主・自主・公開の三原則」を誓い、これが日本の原子力基本法に盛り込まれている。日本も核兵器製造には世論の監視が厳しかった。
こうして、この世界で日本とフランスが原子力の平和利用を目標にしたため、技術レベルが国際的に高い状態を維持したのである。
日本の女性研究者の歩み
女性研究者の状況については、日本とフランスは随分違う。1960年代の高度成長期、働く女性は増え始め、「ポストの数ほど保育所を」という世論で保育所が増え始めた。しかし、学術界や大学ではそうした動きはまだ程遠い現状だった。当時の大学教員の公募には「男性に限る」といった表現も見られるほどで、女性研究者の会では新聞に広告を出して「公募で女性差別をしないでほしい」と訴えたものであった。キュリーの伝統のあるフランスや市民権運動でマイノリティの権利を保障した米国とは全く異なった状況だった。
変化は徐々に日本にも訪れた。1980年、学者の国会といわれる日本学術会議に初の女性会員が誕生する。猿橋勝子 氏だった。彼女はすぐに、塩田庄兵衛(委員長)など男性会員とともに「婦人(当時は婦人と言っていた)研究者の地位分科会」を立ち上げ、初めて女性の地位の問題を学術会議で取り上げたのである。重要なことは、このとき科研費で科学者の環境調査を初めて行ったことだ。当時は女性研究者のネットワークをフルに使い、学会名簿からの抽出調査を行った。その後いろいろな調査が行われている。しかし、名簿も個人情報保護法のあおりを受けて公開されていないこともあって、これだけのネットワークで集めた全領域の調査は、実現不可能となった。
猿橋 氏たちが行った調査の1例をお見せする。細かいことは省いて、横軸に業績ランク(6段階)、縦軸に地位指数をとると、同じ業績のランクでも男女では差があることが示されたのである。例えば、ランク5では男性はほぼ国立大学の教授なのに、女性は助手というレベルだ。この結果は、学術会議の雰囲気を一挙に変え、誰も「女性は業績がないから地位が低いのだろう」と言わなくなった。科学者は、きちんとデータを示せば分かってもらえる。それが素晴らしいところだ。
1985年の国際婦人年には、雇用機会均等法が成立、続いて育児休職が義務付けられ、企業の女性研究者は増加し、育児と仕事を両立させる人数が増えた。
そして、2003年の「Women in Physics-IUPAP(国際純正応用物理学連合)」(通称パリ会議)が開かれることになり、日本物理学会にもその呼びかけが来た。この勢いを背景に同年秋には、「男女共同参画学協会連絡会」という学会を横断した共同体ができた。
私たちは科学者である以上、必ずデータをもとにした要望や提言を行うのが常套(とう)手段である。そしてパリ会議をきっかけに、学会としては初めて会員のアンケート調査を、そして学協会全体の調査(回答数 約20,000名)の取り組みへとつながっていった。この結果は、大きな力になり、政府を動かし、現在の女性研究者支援事業につながっていった。
湯浅さんへ問う
女性研究者の特性についてお話する紙面がなくなってきた。「女性には女性らしい特性がある。科学の営みにも違いがあり、それは男性にまねできないような優れたものがある。もっと、それを大切にしてほしい」といった意見も聞く。最後に、問いを投げかけて終わることとしよう。
「湯浅さん、あなたは日本に一度帰ってこられ、そのとき、女性の科学への道を拓くために、大変な努力をされたと聞いています。でもあなたは、再びフランスに行ってしまわれました。その本当の理由はなんでしょうか?」
それは科学への思いだけなのか。それとも、もっと深い人間への思いがあったのか。湯浅さんに聞いてみたかったな、とつくづく思う。
(注)湯浅年子博士の生誕100年を記念するラボラトリ・セレモニーが5月21日つくば市のつくば国際会議場で行われ、坂東昌子 氏ら博士にかかわりの深い人々がスピーチを行った。
坂東昌子(ばんどう まさこ) 氏のプロフィール
1960年京都大学理学部物理学科卒、65年京都大学理学研究科博士課程修了、京都大学理学研究科助手、87年愛知大学教養部教授、91年同教養部長、2001年同情報処理センター所長、08年愛知大学名誉教授。専門は、素粒子論、非線形物理(交通流理論・経済物理学)。研究と子育てを両立させるため、博士課程の時に自宅を開放し、女子大学院生仲間らと共同保育をはじめ、1年後、京都大学に保育所設立を実現させた。研究者、父母、保育者が勉強しながらよりよい保育所を作り上げる実践活動で、京都大学保育所は全国の保育理論のリーダー的存在になる。その後も「女性研究者のリーダーシップ研究会」や「女性研究者の会:京都」の代表を務めるなど、女性研究者の積極的な社会貢献を目指す活動を続けている。02年日本物理学会理事男女共同参画推進委員会委員長(初代)、03年「男女共同参画学協会連絡会」(自然科学系の32学協会から成る)委員長、06年日本物理学会長などを務め、会長の任期終了後も引き続き日本物理学会キャリア支援センター長に。09年3月若手研究者支援NPO法人「知的人材ネットワークあいんしゅたいん」を設立、理事長に就任。「4次元を越える物理と素粒子」(坂東昌子・中野博明 共立出版)、「理系の女の生き方ガイド」(坂東昌子・宇野賀津子 講談社ブルーバックス)、「女の一生シリーズ-現代『科学は女性の未来を開く』」(執筆分担、岩波書店)、「大学再生の条件『多人数講義でのコミュニケーションの試み』」(大月書店)、「性差の科学」(ドメス出版)など著書多数。