「21世紀の科学のあり方」
専門の素粒子論から交通流理論や経済物理学さらには情報、環境など幅広い分野に研究対象を広げるかたわら、女性研究者の研究環境改善に率先して取り組み、最近では日本物理学会キャリア支援センター長として若い物理学博士が活躍の場を広げるための後押し役も担う―。社会とのつながり、社会への貢献をつねに考えながら研究、教育活動を続けて来た坂東昌子・愛知大学名誉教授に、これまでの活動を振り返り、さらにこれから期待される科学のありかたと科学者像について語ってもらった。
―総合ゼミ誕生。
こうした素晴らしい経験を積んでいたころ、世間は「教養廃止論」が大きくなった。教養部は肝心の学問もしないで、専門研究者がばらばらに集まっているだけで無駄だという雰囲気が一般的になり、次々廃止されていった。われわれの大学も例外ではなかった。語学・体育・一般教育の3つの間でも考え方が違い、教養の欠陥だけが云々された。
確かに教養部は大人数講義でたくさんの受講生に魅力ある講義を工夫するという重要な教育責任はあるけれど、その後専門に行ってどうなるかは、責任がない。専門にはこれが不満だろう。だからスローガンとしては「4年一貫教育」という大学の教育目標に沿って、専門学部と教養部が協力する必要がある。それに、教養の教員は専門学部の教員に比べてレベルが低い、つまり専門の業績が少ないから教養部で一般教育を担当しているのだ、といった一種の侮蔑の目で見ている専門教員も多い。それを反映して、学生の間でも「パン教」といって一般教育を軽く見る傾向がないとはいえない。そんなこともあり、専門の教員の格差意識もちらちらする。そればかりでなく、教養の教員自身が、専門学部所属になりたいと希望している場合もたたみ受けられた。そんな中、1994年には愛知大学も教養部廃止になった。
その後、私も専門学部に所属する「一般教育担当」の教員となった。そこで始めて知ったことであるが、教養ではよく議論を戦わせていたのに、専門の先生方がお互いに学問の議論をしているのをめったに見たことがないという状況だった。つまり、ほとんどは蛸壺(たこつぼ)の専門分野を抱えて閉じこもっているので、議論などは必要ないようにみえるのである。
あるとき、ある専門ゼミの先生が病気になられ、卒論を誰か代わりに見るという話が教授会に出てきた。すると、みんな「専門が違うから」といって引き受けないのである(仕事が増えるからという気持ちが働いていたのだろうが)。私はたまりかねて、「一般教育では私は物理の専門ですが、場合によっては宇宙や地球、生物、情報、数学、なんでも必要なら引き受けています。学生レベルの卒論についてこれほどもめるのですか。そんな視野の狭いことでいいのですか」と言ってしまった。教養部の方がよほど広い学問の分野についてお互いに好奇心もあり、わらに一般教育を通じて視野を広げていける、これが私の専門学部に所属した率直な感想であった。
教養部のよさが分かってもらえないので抵抗したものの、時勢には勝てず廃止する羽目になったとき、1つだけ獲得したものがある。それが総合ゼミであった。それは総合科目に連動して設置された。こうして卒論こそ書けないが(これがまた専門の先生方はプライドがあり絶対に認められなかった)、ゼミ形式の少数授業で学生たちと接する機会ができたのである。この総合ゼミが、私たちにとって、学生と直接つながる素晴らしい場となった。
少し長々説明してしまったが、こうして愛知大学を定年退職して非常勤になっても、引き続き総合ゼミを担当させてもらっているところである。
このゼミは、学生たちともいろいろな形で付き合いが増え、若い人と付き合う機会ができて、ほんとに楽しかった。やはり少人数教育では、教養部での大人数教育とは、また一色異なった楽しさを味わうことができるとともに、学生たちの将来について思いをめぐらす責任感みたいなものも出てくる。彼らが就職活動を始めると、相談にも乗ったりするようにもなる。「坂東さんが元気なのは、若い学生が周りにいっぱい居るからだ。エネルギーを吸い取っているのと違うか」などと、けしからんことを言う人もいるが、ひょっとしてそうかもしれない。
―名古屋市環境局との交流。
1999年、名古屋市は「ゴミ非常事態宣言」を出し、名古屋市の環境行政は大きな変革期を迎えたときであった。当初、名古屋市が実施した分別回収制度は市民に混乱をもたらした。しかし、一方、この試みは都市のごみ処理の方法を模索するチャンスであり、リサイクル資源化がどこまで実効力を持ち得るかのテストケースとして注目に値する試みでもあった。
そもそも名古屋市がごみ問題に取り組んだのにはわけがある。どこもそうであるが、従来の廃棄物処理は焼却か埋蔵であった。名古屋市は古い焼却炉しかなくダイオキシン騒動もあって限界に来ていた。新しい埋蔵場所として考えていた藤前干潟は、環境を守る市民の反対に遭い、最終的には環境庁まで差し止めにまわり、ごみを減らすしか方法がなくなったのである。
ここで興味深いのは、藤前干潟を守る運動をしていた市民団体から、「次はごみ問題に取り組もう」といったという話を聞いたことだ。目前の目標からさらに高い目標への認識を発展させる例である。これこそ、市民運動の質の高さを示した例なのであろう。
折も折、私は、愛知大学の学内共同研究「エネルギー・バイオテクノロジー問題の総合的考察」を主宰していた。物理を専門とする立場から、物質循環というものをエントロピーと関連させると、この名古屋市のやり方にはいろいろな疑問を持たざるを得ない。そこで共同研究班で研究会を組織し、神下豊・名古屋市ごみ減量対策室長に話題を提供していただき議論することとなった。最初、いろいろな批判をぶつけるつもりだったのだが、この研究会での神下氏の説明は、最初から名古屋市のやり方を弁護するというものではなく、客観的に現状を分析し、地道な調査の上にたって問題点を明らかにしようという姿勢であり、感銘を受けた。
こういう姿勢なら、最初は多少間違った方針でも正していける、そもそも、環境問題といった他分野がかかわる複合問題はわいわい言っていても、すぐに答えが得られるものでもない。というか、いろいろな試行錯誤を繰り返し、知恵を結集して、そこから正しい方向を協力して探り当てるしかない。そういう種類の問題なのだ。
これがきっかけになって、私は、名古屋市環境局と名古屋エコネットやエコクラブの指導などの活動で連携をすることとなった。幸い、愛知大学の市内のキャンパスは便利のいいところにある。子供も含めた市民・行政・企業でいっしょに環境問題を考えるイベントを愛知大学でやれないか、と名古屋市、というより神下氏から依頼されたときには、喜んで協力することとなった。2003年のことであった。
この企画を通じて学生たちのエネルギーも引き出せる。学生たちにとって、最も成長の機会を与えてくれるのは、単なる架空の練習問題ではなく、現実の世界と連動した活動で、少しでも自分たちの勉強の成果が社会に還元されることが見えるときである。ゼミの課題は第1級の問題か、社会に連動した現実から見つけた問題である、というどなたからか教わったことが、私の頭には常にあった。
このエコネットの活動の中で、学生たちは、子供たちのリーダーになって、環境問題に取り組んだのである。そして年々、その組織も充実し、夏のイベントには参加して当然という雰囲気が出てきた。もっともそのために、「坂(ばん)ゼミは忙しい」ということで、敬遠されることもあるのだが、かえって、ほんとうにやりたい学生が集まるのが、楽しかった。やりだして面白くなると、自主的にどんどんやりだす。そして見事に1つ1つのイベントごとにぐっと成長する。それを見ていると、学生たちは決してしらけてなんかいない、みんな素直でよく伸びていくな、と楽しくなる。そしていったん伝統ができると、ゼミは自主運営でその伝統を受け継ぐのが面白い。
―20世紀の忘れ物 廃棄物。
名古屋市の非常事態宣言から5年もたつと、ごみ排出量などのデータを踏まえた評価ができるようになる。それによるとごみ排出量を削減することは、は一定の限度に達しており、それ以上の削減は相当な質的変革なしには無理な状態になってきた。それはある意味で予想されたことでもあろう。こうした環境への取り組みに対して、一般市民、環境運動に参加する主体者・行政・企業サイドの意識はどうなっているのであろうか。どうもこのあたりが、気になる。
そもそも、国際的に環境問題に火をつけたのは、レイチェル・カーソンである。彼女は生物学者だといっても、恵まれた地位にいたわけではない。こつこつと1人でデータを蓄積し、そして科学の成果であるはずの化学物質がもたらす環境破壊について調査、検討した。そして1962年「沈黙の春」が世に出たとき、最もこれに反対したのはDDTなどの農薬を生産する企業だろう。そして世間から「ヒステリー女」とまでいわれたという。どうしてその彼女の本が、このように取り上げられ、広まったのかは、今も私には謎で、もっと深く考えてみたい問題のひとつである。
そして72年には「成長の限界」が大きな世論を生む。初の大きなNGO「ローマクラブ」の誕生が見えたときでもある。「もう冷たい戦争などしているときではない。地球全体で協力しないといけない」という世論が誕生したのである。それに呼応する形で、1970年代、日本は「公害問題」が大きく市民の関心を呼んだ。それが政治の変革と結びついて、さまざまな形で成果を残したといっていいだろう。さまざまな環境問題が大きく取り上げられた。大気汚染防止法の成立過程などは、私たちに市民と科学の勝利を実感させる話である。
しかし、1980年も終わりごろからの動きを見ると、気になることがある。環境問題の危機が誇張され、科学的認識を無視した主張も見られるようになる。「ベルリンの壁崩壊」、「冷戦の終結」、「ソ連の崩壊」などの世界的な政治の動きと連動しているという主張もあるが、それはともかくとして、「これはおかしいな」と思うようなキャンペーンが目立つようになってきた。
環境の抱える問題は、近代科学技術の成果と深く結びついており、総合的視野に立ってその解決への道を追求する必要があるのだが、果たして大丈夫か、という疑問を持つ声も出始めた。だが、そのころは、環境保護こそ正義という雰囲気があり、それに逆らう主張に対しては、冷静な判断ができない状況だったともいえよう。
(続く)
坂東昌子(ばんどう まさこ)氏のプロフィール
1960年京都大学理学部物理学科卒、65年京都大学理学研究科博士課程修了、京都大学理学研究科助手、87年愛知大学教養部教授、91年同教養部長、2001年同情報処理センター所長、08年愛知大学名誉教授。専門は、素粒子論、非線形物理(交通流理論・経済物理学)。研究と子育てを両立させるため、博士課程の時に自宅を開放し、女子大学院生仲間らと共同保育をはじめ、1年後、京都大学に保育所設立を実現させた。研究者、父母、保育者が勉強しながらよりよい保育所を作り上げる実践活動で、京都大学保育所は全国の保育理論のリーダー的存在になる。その後も「女性研究者のリーダーシップ研究会」や「女性研究者の会:京都」の代表を務めるなど、女性研究者の積極的な社会貢献を目指す活動を続けている。02年日本物理学会理事男女共同参画推進委員会委員長(初代)、03年「男女共同参画学協会連絡会」(自然科学系の32学協会から成る)委員長、06年日本物理学会長などを務め、会長の任期終了後も引き続き日本物理学会キャリア支援センター長に。「4次元を越える物理と素粒子」(坂東昌子・中野博明 共立出版)、「理系の女の生き方ガイド」(坂東昌子・宇野賀津子 講談社ブルーバックス)、「女の一生シリーズ-現代『科学は女性の未来を開く』」(執筆分担、岩波書店)、「大学再生の条件『多人数講義でのコミュニケーションの試み』」(大月書店)、「性差の科学」(ドメス出版)など著書多数。