インタビュー

第4回「真実の追究を阻んだのは」(金子敦郎 氏 / 元大阪国際大学学長、元共同通信記者)

2007.08.13

金子敦郎 氏 / 元大阪国際大学学長、元共同通信記者

「世界を不幸にする原爆カード-ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」

金子敦郎 氏
金子敦郎 氏

62年前の1945年8月、広島、長崎へ落とされた原爆は、一発で即座にそれぞれ十数万人、約7万人の命を奪った。20世紀最大の出来事とも言われる原爆投下は、本当に不可避の戦争行為だったのだろうか? なぜ、戦後長い間、原爆投下にかかわる真相が明らかにされなかったのか?通信社記者時代の取材活動から大学での研究活動を通じ、長年このなぞの解明に挑んできた金子敦郎氏の著書「世界を不幸にする原爆カード―ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」(明石書店)が刊行された。原爆投下を急いだ人間とその理由や、原爆使用が戦後の国際社会に及ぼした影響、さらには原爆の恐ろしさを的確に知る科学者の果たした役割などについて語ってもらった。

冷戦が何だったかについては、ソ連の行動を何でも国際共産主義の膨張とする米国側、米帝国主義はソ体制を破壊しようとしているとみるソ連側、この双方の過剰な恐怖心が、幻影を膨らませて無駄な対立を半世紀も続けさせてしまったからだ、という研究が進んでいる。

トルーマンやバーンズが必死になって真実を隠したこと、そしてそれを、米国民も世界もなんとなくおかしいと思いながら追及しなかったのは、やはり冷戦のためだといえる。原爆投下の後、冷戦が一気に進行したわけだが、原爆を使ってスターリンを脅すということをしなかったなら、あれほど危険な対立にはならなかったのではないか、少なくとも核軍拡競争にはならなかったのでは、という有力な見方がある。冷戦を作り出したとまでは言わないが、「ヒロシマ・ナガサキは冷戦の触媒」だったというわけだ。

冷戦がどんどん進行していく中で、米国の中では原爆を使ったことが否定しにくくなっていく。原爆投下を否定すれば、その必然の結果としての核軍拡競争の批判にもつながってくるからだ。冷戦そのものにも疑問を抱かない時代の流れの中で、原爆の問題が埋没してしまった。

日本においては、被爆国でありながら、この問題を追究すると米国が困る。体制側にとってはまさにそうしたテーマだったし、他方、原水爆禁止運動のような反体制側においても同様に追究しにくい特有の状況があった。「米帝国主義が核を持って社会主義国を脅すのはいかん」ということは言うものの、クレージーな軍部指導者によって一億玉砕まで引きずり込まれかねなかった、という軍国主義批判の思いが根底にある。原爆のおかげでそこまで行かなかったのでは、という深層心理があるからだ。これは左翼にかかわらず保守派にも見られる。

東京大空襲で十何万人かが死んでいる。ドイツのドレスデンでも十数万人が一度の爆撃で死んでいる。広島で一度に死んだのは十数万人、長崎で約7万人だ。死者の数からいえば同じようなもの、という見方も原爆の真実の追究がおろそかになった一つの理由になっている。B29のような大型爆撃機が何百機、千機と大編隊を組み、何万発もの爆弾を落とした結果による十数万人の死者と、一発で十数万人という死者を出した原爆被害を、死者の数だけ比べて、一緒くたにして論じるのは問題だと思うが…。いずれにしろ、日本においては、ジャーナリズムも、学者や政治家も原爆についての真実を追究しようという姿勢に欠けていたということはいえると思う。

米国では先に述べたような状況の中でも、1960年代に入るころから、特にベトナム反戦運動の広がりの中で、変化が見られた。それまで、米国は常に正義の戦争で勝ってきていた。それがどうもわれわれの政府も間違ったことをする、という声が高まり、政府の権威が揺らいでいく。そういう時代の中で原爆研究も進んできた。どうもおかしかったのでは、と。

M.シャーウインやG.アルペロヴィッツといった人たちの研究がそれで、修正主義学派といわれている。原爆投下については、非人道的な行為だった。軍事的に必要ないものをカードのように安易な使い方をした。米政府部内にも賢い人々がたくさんいたではないか、といった主張に対し、自虐史観ということで袋だたきに遭う。にもかかわらず研究を進め、情報の自由法が制定される1970年代には当時の関係者が事実を話し始めるといったこともあり、いろいろな真実が表に出てくるようになった。われわれがワシントン支局にいた85年ごろには大体のことがわかってきて共同通信としてもそれなりの報道をしたが、80年代後半から90年代にかけて新たな資料が発掘され、全貌が分かってきた。

原爆を一度でも使ってしまったら、それもソ連を威嚇するような形で使ってしまったらパンドラの箱を開放してしまったのと同じ。米国の科学者たちは、原爆は最初に造るのは大変だが、追いかけるのはそれほどでもない。ソ連のような一定の科学力がある国なら3年か4年で造れる、と的確な指摘をしていた。しかし、バーンズは生半可な科学的知識しか持たない技術将校あがりのグローブス将軍(マンハッタン計画総括責任者)の意見の方を取ってしまう。7年から10年間はどこも原爆は持てない、その間に原爆をカードにして、世界の覇権を握ってしまえる、と思い込んだ。

広島に原爆を落とされ、ソ連が参戦し、さらに長崎に原爆を落とされても日本はぐずぐずしており、最後に天皇が決断してようやく降伏を受け入れた。仮に米国が原爆投下の警告や天皇制維持などの情報を原爆投下の前に日本に伝えたとしても効果はなかった、などと言う日本の多くの学者たちがいるが、私はそうは思わない。米国が原爆投下を避ける外交努力をしたなら、天皇はもっと早く決断したのではないか。

(完)

金子敦郎 氏
(かねこ あつお)
金子敦郎 氏
(かねこ あつお)

金子敦郎(かねこ あつお)氏のプロフィール
1935年東京まれ、58年東京大学文学部西洋史学科卒業、共同通信社入社、社会部、サイゴン支局長、ワシントン支局長、国際局長、常務理事などを経て、97年大阪国際大学教授、2000年同大学国際関係研究所所長、01年同大学学長、06年名誉教授。現在、カンボジア教育支援基金(共同)代表理事も。共同通信ワシントン支局長時代の1985年、支局員とともに現地の科学者、ジャーナリストの協力を得て米国立公文書館などから約200点もの米政府内部資料や関係者の日記などを入手、多くの生ニュースと連載記事「原爆-四〇年目の検証」を出稿した。それが今回の書のベースの一つとなっている。著書に「壮大な空虚」(共同通信社、1983年)、「国際報道最前線」(リベルタ出版、1997年)など。

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