インタビュー

第3回「原爆投下は対ソ戦略のためでもない」(金子敦郎 氏 / 元大阪国際大学学長、元共同通信記者)

2007.08.09

金子敦郎 氏 / 元大阪国際大学学長、元共同通信記者

「世界を不幸にする原爆カード-ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」

金子敦郎 氏
金子敦郎 氏

62年前の1945年8月、広島、長崎へ落とされた原爆は、一発で即座にそれぞれ十数万人、約7万人の命を奪った。20世紀最大の出来事とも言われる原爆投下は、本当に不可避の戦争行為だったのだろうか? なぜ、戦後長い間、原爆投下にかかわる真相が明らかにされなかったのか?通信社記者時代の取材活動から大学での研究活動を通じ、長年このなぞの解明に挑んできた金子敦郎氏の著書「世界を不幸にする原爆カード―ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」(明石書店)が刊行された。原爆投下を急いだ人間とその理由や、原爆使用が戦後の国際社会に及ぼした影響、さらには原爆の恐ろしさを的確に知る科学者の果たした役割などについて語ってもらった。

原爆を使ったのは、対ソ戦略のためだったとよく言われる。そうではなく、目先のソ連に対するパワー外交、および内政上の配慮のため、というのが現実だ。

トルーマン大統領、バーンズ国務長官がなぜ原爆を使ったかについては、対ソ戦略のためという理由のほかに、戦争を早く終わらせて犠牲を少なくするためということが言われている。しかし、いずれも後から作った話だ。実はトルーマンにもバーンズにも対ソ戦略などは欠如していた。原爆投下の後、すぐに冷戦が始まる。その後冷戦が続いたのだから、当然、彼らはそれを念頭において原爆を使っただろうという説明は、後知恵にすぎない。当時の彼らの言動からみると、そんな長期的見通しなどなかった。

金をかけて造った兵器なのだから使うのは当たり前ではないか、というプリミティブな議論がある。それはある程度そういう部分もあったかもしれないが、それよりもバーンズが考えたのは目先のことだ。

欧州の戦争では、米ソは同盟国だったが、戦争の終わりが近づくにつれてだんだん対立が表面化するようになった。なぜかというと、ヒトラーが占領していた東欧をソ連が解放してしまい、そのまま自分の勢力圏にしてしまったからだ。しかし、それをソ連の共産主義の世界戦略だと重く受け止めた人は実はそんなにいない。ポーランド系という米国では大きな勢力がある。そのポーランドがソ連の支配下になってしまったことを米国として認めてはならない、という声が一番大きかった。そのほか、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラビアといった国、スーゴスラビアはちょっと違うが、これらの国を全部、ソ連が支配することになった。ソ連の勢力圏をそこにつくらせてしまったのはまずい、というポーランド系勢力に配慮した主張だ。

ところが、これも実はトルーマン大統領の前のルーズベルト大統領は、ソ連が実力で支配してしまったのだからしようがない、と考えていた。ルーズベルトは現実的な考えをする大統領で、取り返そうと思ったら戦争になってしまう、戦後の安定のためには、ソ連の存在も認めて、責任も負わせればいいではないか、という判断だった。その代わりに、極東は米国の勢力圏に置く、と。

これに対し、バーンズは東欧をソ連に取られたのはけしからん、という声に乗る。ルーズベルトが現実的な考えを持っていたことは承知の上だ。バーンズは、ソ連との外交を有効に進めるためには、力のカードがなければならないと考えるパワーポリティクスの政治家だった。米国は原爆を持った。対日戦争を終わらせて、戦後の世界をソ連と米国で支配していくには、交渉にカードが必要。原爆はそのカードになる。ソ連に見せなければならない、それも原爆を持ったというだけでなく、実際に使って威力を見せ付けないと、と思い込んだ。

バーンズのこうした考えの背景には、ヤルタ会談のトラウマがある。ヤルタ会談でルーズベルトは、スターリンに毛沢東支援をやめて蒋介石支援を約束させることで、スターリンの東欧支配を事実上受け入れる。バーンズは大統領側近としてこの会談に出ており、スターリンが力で押さえてしまった東欧を、テーブルの上の交渉で取り返すことなどできないとわかっていたわけだ。

原爆開発には当時の金で20億ドルという巨額な資金が投入された。第2次大戦を通して米軍が使ったすべての弾薬類の総額が20億ドルである。たった2発の原爆にこれだけの大金を使ったのだから、使用して当たり前。バーンズは議会政治家だからこのように考えただろうと推測はできる。しかし、それより何より、ドイツに勝ったし、日本にまもなく勝つのははっきりしている。その後の世界を支配するために、ソ連との交渉を有利に進めるには外交のカードが必要で、それが原爆だ。だから原爆は使う、と最初からバーンズは考えていた。

長期的な対ソ戦略といったものがあったわけではなく、とりあえずの外交の切り札に原爆がなると思っただけ。ヤルタで東欧をソ連に取られたのはしようがないが、その代わり極東には手を出さないことを認めさせるための交渉の切り札に使える、と思い込んだだけだ。

(続く)

金子敦郎 氏
(かねこ あつお)

金子敦郎(かねこ あつお)氏のプロフィール
1935年東京まれ、58年東京大学文学部西洋史学科卒業、共同通信社入社、社会部、サイゴン支局長、ワシントン支局長、国際局長、常務理事などを経て、97年大阪国際大学教授、2000年同大学国際関係研究所所長、01年同大学学長、06年名誉教授。現在、カンボジア教育支援基金(共同)代表理事も。共同通信ワシントン支局長時代の1985年、支局員とともに現地の科学者、ジャーナリストの協力を得て米国立公文書館などから約200点もの米政府内部資料や関係者の日記などを入手、多くの生ニュースと連載記事「原爆-四〇年目の検証」を出稿した。それが今回の書のベースの一つとなっている。著書に「壮大な空虚」(共同通信社、1983年)、「国際報道最前線」(リベルタ出版、1997年)など。

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