「放射線対策は総合的判断で」
東北地方太平洋沖地震では、「想定外」という言葉が当事者や専門家からよく聞かれる。しかし、当事者、専門家たちが、責任を回避するようなことを言っていてはどうしようもない。福島第一原子力発電所の危機的状態がなかなか終息に向かわないことへの不安とともに、環境中に放出された放射性物質による野菜や飲用水の安全性に多くの国民の関心が高まっている。当事者、専門家の明快な発信がますます求められている時ではないだろうか。2002年4月に原子力安全委員会委員長代理(当時)として「原子力災害時における安定ヨウ素予防服用の考え方」をまとめるなど、放射線影響とリスク管理の研究と正しい理解の普及に努めてきた松原純子 氏に、一般国民の疑問に対する答え、政府や原子力安全委員会などに対する提言を聞いた。
―2号機タービン建屋内に続き、タービン建屋外のトレンチ、さらにはピットの亀裂から海へ流出している水のいずれからも1時間当たり1,000ミリシーベルト以上という高い放射線量が測定されています。冷却システムの回復作業に取り掛かる前に水の処理で相当な時間をとられるとすると先生が第一に心配されておられた作業員の大量被ばくの可能性だけでなく、周辺住民への長期にわたる放射線の影響もきちんと評価して、分かりやすく説明する必要がますます高まっているように思われますが。
確かに放射線による影響とは何かを含めて、多くの方々によく理解してもらう必要があります。私は、昔から言っているのですが、規制値または許容線量がそのまま放射線の影響値という単純な関係ではない、ということです。放射線基準として、一般の人々(公衆)に対する年間の許容線量は1ミリシーベルトと決められています。この意味をよく理解するには、そもそも放射線による人体への影響とは何かを知っておく必要があります。
まず、一度に大量の放射線を浴びた際の影響は、分かっており、全身に500ミリシーベルトくらい被ばくすると血中のリンパ球の減少が見られ、1,000ミリシーベルトで脱力感やおう吐といった自覚症状が出て、3,000-5,000ミリシーベルトで約半数の人が死亡、7,000-10,000ミリシーベルトになると中枢神経もやられ全員死亡します。福島第一原子力発電所で処理に苦労している水の表面の放射線量が1時間あたり1,000ミリシーベルトという値が、危険なレベルということが理解できるでしょう。
しかし、一般の人々にとって複雑でなかなか理解が難しいのは低い線量の放射線による影響です。
放射線は体の中でフリーラジカル(活性酸素)を発生させる作用があります。前にお話したように、私たちの体内では平常時でもフリーラジカルというものが生命活動に伴って必ずでき、これによってエネルギー代謝が進みますが、その量は体内にある抗酸化物質により一定に保たれています。フリーラジカルは人体に不可欠ではありますが、ある量以上の放射線を浴びるとフリーラジカルが増え細胞が傷つき、白血球が減少するといった明らかな健康への悪影響が出てきます。放射線に限らず、有害化学物資や大気汚染物質が体内に入ると、細胞中に余分なフリーラジカルを作りだします。そうしますと前にお話ししたように細胞や細胞膜を傷つけます。
一方、人体には防御機能として前に述べた抗酸化物質の働きや、細胞核のDNAを修復する酵素によって傷ついた細胞を修復する機能、そして、傷ついた細胞を除くアポトーシス(細胞自殺)などもあるのです。放射線被ばくなどで人体に悪影響が出るというのは、放射線がこうした人体に備わった防衛機能の力を超えて細胞を傷つけてしまう時に現れるのだと思います。
問題は、低線量の放射線による発がんという人体への影響がどの程度か、ということです。一度に大量の有害物質にさらされた時にどうなるかは、ネズミなどの動物に放射線を当てたり、有害物質を注射したりして調べることができます。しかし、微量の放射線をネズミに当て長期間の発がんへの影響を見るというのは、容易ではありません。例えば1万匹ものネズミを何年も飼い続けること自体が難しいのです。他のストレス要因で次々に死んでしまったりしますから。
加えて、出てくる影響が極めてわずかという難しさがあります。例えば白血病というがんは、もともと人口10万人あたり4人とか5人しか発病しません。肺がんなども相当の年配になってからでないと発病しませんから、1万匹のネズミを何とか飼い続けて実験をしても、種類の違う病気やがんの発症率が、それぞれどのように変化するかを見分けるのは困難です。
結局、低線量の放射線による長期的な影響をみるのは、微量の発がん物質の影響を調べるのと同様、大勢の人間の集団を何年も続けて調査し解析する疫学という方法しかないのです。
―ということは、今、許容線量とされているものの根拠は何ですか。
これまでは広島・長崎の原爆で被ばくした後、5年以上生存した方々の50年にわたる約10万人の追跡調査、英国、カナダ、米国で原子力施設作業者96,000人を最大25年追跡した調査があります。
広島・長崎、英・カナダ・米国の追跡調査とも併せて結論として言えることは、100ミリシーベルトという低線量の放射線によりがんの発生がどのくらい増えるか、は大規模な追跡調査によっても証拠を示すことが困難だということです。ただし、チェルノブイリ事故後に甲状腺がんが、放射性ヨウ素で汚染された地域の小児にこれまでに4,800人発生した(2007年のWHO=世界保健機関報告による)ことが明らかな現実として分かりました。
ですから、放射性ヨウ素については、前にお話ししたように、日本でも2002年4月に私が原子力安全委員会委員長代理としてまとめた「原子力災害時における『安定ヨウ素予防服用の考え方』」の中で、どういう場合に安定ヨウ素剤を使ったらよいかを詳しく示しているわけです。
(続く)
松原純子(まつばら じゅんこ) 氏のプロフィール
東京生まれ、お茶の水大学付属高校卒。1963年東京大学大学院博士課程修了後、同大学医学部助手、講師を経て94-99年横浜市立大学教授。1996年原子力安全委員会委員、2000-04年原子力安全委員会委員長代理。現在、財団法人放射線影響協会研究参与。専門は環境医学、リスク評価。長年、放射線に対する生体防御機構の役割について実験的研究を続けるなど、放射線や原子力の安全問題を女性の視野も含めて多角的に検討している。放射線や有害リスク評価に関する知見をリスク科学としてまとめた。主な著書に「女の論理」(サイマル出版社)、「リスク科学入門」(東京図書)、「いのちのネットワーク」(丸善ライブラリ)など。