「放射線対策は総合的判断で」
東北地方太平洋沖地震では、「想定外」という言葉が当事者や専門家からよく聞かれる。しかし、当事者、専門家たちが、責任を回避するようなことを言っていてはどうしようもない。福島第一原子力発電所の危機的状態がなかなか終息に向かわないことへの不安とともに、環境中に放出された放射性物質による野菜や飲用水の安全性に多くの国民の関心が高まっている。当事者、専門家の明快な発信がますます求められている時ではないだろうか。2002年4月に原子力安全委員会委員長代理(当時)として「原子力災害時における安定ヨウ素予防服用の考え方」をまとめるなど、放射線影響とリスク管理の研究と正しい理解の普及に努めてきた松原純子 氏に、一般国民の疑問に対する答え、政府や原子力安全委員会などに対する提言を聞いた。
―冷却機能が回復できない原子力発電所自体も予断を許さない状況が進んでいますが、牛乳、野菜に加え飲用水にも指標を超える放射性物質の量が各地で測定され、一般国民の放射線、放射性物質の危険に対する不安が高まっています。当面、政府、電力会社などに必要とされる対策と、一般国民に対する助言を伺います。
一般の人が水を求めてスーパーに殺到するなど、電力会社、政府、原子力安全委員会は一般国民への健康の影響は大したことではないなどと言ってはいられない事態になっています。まず、原子力安全委は、正確な汚染情報を早く公表すべきです。国民の大半は原子力発電所で何が起こっているのか、それはどういう意味があるかを知りたいわけですが、それは私のような第一線を退いた専門家も同じです。私は主としてテレビ情報に頼っていますが、格納容器は安全だが、原子炉建屋は吹き飛んだといったことは、ある程度分かります。ところが、放射性物質による汚染情報がものすごく少ないのです。発電所正門の前で何ミリシーベルトといった情報しかなく、どれくらいの量の放射性物質が放出されるのか、チェルノブイリ事故など過去に起きた事態と比べてどう違うか、といった情報がほとんどありません。
2002年に私が原子力安全委員長代理だった当時、高いお金をかけてつくった緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)というのがあります。放射性物質の放出源の情報に気象条件、地形データを入れると、周辺地域の大気中放射性物質濃度やその場所の人々の被ばく線量を迅速に予測できるシステムです。今回、当然このシステムが作動して情報が公表され、汚染の状態がどれくらいか分かって安心する人も多いだろうと思っていました。ところがこれが公表されたのは地震が発生して10日以上たった23日になってからです。
―18日に日本学術会議が開いた緊急集会「今、われわれにできることは何か?」で田中俊一・前原子力委員会委員長代理も、SPEEDIによる評価結果の公表を求めていました。今後予想される最悪の事態が起こった場合の放射能の分布と被ばく線量を住民に提示し、避難や退避の理解を求めるべきだ、という趣旨です。しかし、23日に公表された原子力安全委員会のプレスリリースは、説明が素っ気なく、恐らく大半の人にはどういう意味があるのか理解できなかったと思います。
東京の金町浄水場から乳児に対する摂取制限の指標を超す放射性ヨウ素が検出されたという報道があった後、私のところにも東京に住む友人たちから問い合わせがありました。原子力発電所から十分な距離があり、放射性物質も希釈されるから今のところ健康への心配はない、と言うと彼らは納得します。しかし、こうした説明は一般の方々には届いていません。
今回のケースでは、気体になりやすい核分裂生成物であるヨウ素やセシウムが原子力発電所から周辺に散らばるのははっきりしています。これは防ぎようがありません。原子力安全委員会は、一般の人々を恐れさせないという配慮をしたものと思われますが、私が今でも原子力安全委員だったならもっと早く公表しました。事実を隠すのは、科学者同士の関係から言っても正しい姿とは言えません。科学者は事実を知りたいと思って研究しているのです。真実を隠すとろくなことはありません。いち早く出して皆で考える、というのが科学者としてまっとうな姿勢です。
電力会社、政府、原子力安全委員会など為政者側に提言したいことは、正確な放射能汚染情報を早く出すことと、放射線影響や原子炉工学の専門家から成る少人数の委員会を至急、立ち上げ、人々に分かりやすい情報を発信することです。毎日毎日変化する状況に対応して対策を検討し、首相に提言する役目ですから、大勢では駄目で5人くらいが適当でしょう。ICRP(国際放射線防護委員会)の勧告を紹介することが得意な人ではなく、現実的に細胞ではなく人体に放射線の影響がどのようなレベルか、チェルノブイリ事故ではどうだったか、など原子力発電所事故の現実をよく判断できる専門家で構成すべきです。
―一般の人々に対する提言あるいは助言はどうですか。
平常から危険やリスクに対する考え方を学んでいてほしいということです。放射線や放射性物質の場合、どのくらい被ばくすると、どのくらいの影響があるかを、整理して知っておくことです。今回は原子力発電所に近い住民の避難と屋内退避がすぐに実行できました。避難、屋内退避区域の外側にいる人たちが受ける放射線量はいまだ微量ですから、すぐに健康影響が現れる心配や、将来、白血病になる人の数が増えることは今のところ考えにくいと思います。
念のための予防対策としては、ホウレンソウなどはよく洗ってから食べれば放射性物質はほとんど取り除けます。甲状腺がんになる人を増やす恐れのある放射性ヨウ素の予防対策としては、市販の浄水器の中に塩分とともにヨウ素を除去する能力のあるものがあります。
また、放射線の影響で重要なこととして、体内の細胞中でフリーラジカルの生成が増えることが考えられます。フリーラジカル自体は人間が生きていく上で、体内に必ず出てくるものですが、これが多いと生体膜やDNAに損傷を与えます。ですから放射線を受けることで過剰なフリーラジカルが生成すると、健康に悪影響を与えます。これに対してはフリーラジカルの働きを抑える抗酸化作用を持つビタミンC、ビタミンE、亜鉛などのミネラルを含む食べものを普段からよく摂取するという対策が効果的でしょう。
現在気になっていることは、福島原子力発電所の放水や修復作業に従事している人びとの健康管理です。とりあえず、これらの人々にはあらかじめ、亜鉛製剤や市販のチオール剤やビタミンサプリメントなどを与えたり、SPEEDIによる予測指標値をこえる地域の小児には安定ヨード剤を配布するなど、安全とリスクのバランスを考え、勇敢に判断し実行することです。
(続く)
松原純子(まつばら じゅんこ) 氏のプロフィール
東京生まれ、お茶の水大学付属高校卒。1963年東京大学大学院博士課程修了後、同大学医学部助手、講師を経て94-99年横浜市立大学教授。1996年原子力安全委員会委員、2000-04年原子力安全委員会委員長代理。現在、財団法人放射線影響協会研究参与。専門は環境医学、リスク評価。長年、放射線に対する生体防御機構の役割について実験的研究を続けるなど、放射線や原子力の安全問題を女性の視野も含めて多角的に検討している。放射線や有害リスク評価に関する知見をリスク科学としてまとめた。主な著書に「女の論理」(サイマル出版社)、「リスク科学入門」(東京図書)、「いのちのネットワーク」(丸善ライブラリ)など。