公開シンポジウム「Pandemic」(2009年9月4日、東京大学医科学研究所など主催)講演から
非常に速い進展
最初に世界保健機関(WHO)が新型インフルエンザの兆候をとらえたのは4月12日でした。メキシコのベラクルスという小さな町で、インフルエンザ様疾患のアウトブレーク(感染症の大発生)があるということが、国際保健規約というシステムを利用した調査で分かりました。ただし、その原因がなんであるか、しばらくは分かりませんでした。
その情報を受けてメキシコ国内を調べたところ、たくさんの病院で重症呼吸器感染症の患者が増えていることが分かりました。メキシコ保健省が、CDC(米疾病対策センター)などの研究機関に検体を送って調べたところ、新しいインフルエンザであることが判明したわけです。
ほぼ同時にメキシコとの国境に近い米カリフォルニア州でも、国境におけるインフルエンザのサーベイランス(感染症など疾病の発生状況や変化の継続的監視)が強化されていたのですが、軽症ではあったものの、2人の子どもから同じインフルエンザウイルスが見つかったのです。
当初、豚インフルエンザと呼ばれていたこの新型インフルエンザ「Pandemic(H1N1)2009」は、古典的なインフルエンザウイルスとは異なり、私たちの予想をはるかに上回る感染の広がりを見せ、現在ではすでに封じ込めの対象外になりました。結果的に、最初にウイルスを確認してから9週間で、すべてのWHO地域、つまり世界中で新型インフルエンザに感染した患者が報告されました。非常に速い進展を見せたわけです。
混乱招いたパンデミック警告フェーズ
パンデミック対策が最初にたてられたのが1999年で、次いで2005年に改訂されました。そして、鳥インフルエンザ(H5N1)の経験を受け、昨年、さらに新しいものに変えました。「フェーズ4」という時期が非常に重要です。ありとあらゆる公衆衛生学的な手段のスイッチを入れる、その準備をする大事な期間であるからです。「フェーズ5」になってしまうと、パンデミック(世界的な大流行)が目前、「フェーズ6」はパンデミックが進行中という時期になります。
それまでは、人から人へ感染した証拠がみられるという「フェーズ4」の定義が微妙でしたが、昨年の改訂で明確になりました。つまり、ウイルスの感染力が地域に広がるものにまで高まっているか、そして、もし感染力を持っているとしたらどれだけ地域的に広がったのか、それらを目安に決めていこうとしたわけです。
今回WHOは、創立以来はじめてパンデミックインフルエンザのフェーズを4、5、そして6と順番に上げていきましたが、その過程で、5から6へ上げるのは非常に大変で混乱を生じました。混乱を招いてしまったのは「パンデミックのフェーズというのは、重症度は関係がない」という部分です。つまり個人の中での重症度とは関係がないということです。人口単位に見た場合には、状況はさほどでもない場合もある。感染症というのは、ある程度広がってしまわないと総合的には評価できないことから、重症度を分けて考えているためです。
パンデミックのモニタリングについては、次のような考え方をとっています。すべての国で診断技術がしっかりしているわけではないので、途上国でも簡単にレポートしてもらえるシステムを導入しなければならない、というものです。そのやり方が、「地域的な広がり」「呼吸器疾患の発生状態」「呼吸器疾患の発生トレンド」そして「医療機関への負担」の4つの観点で見るという方法です。この7月に発表、施行されました。これらの指標を用いることで、必ずしも確定診断は要しないことになります。
効果あった休校措置
チリ、ヨーロッパ、日本、パナマ、メキシコの診断確定例から、新型インフルエンザ感染者の年齢分布を見てみると、10-19歳の子どもが多い(感染者の約35%)ことが分かります。このデータは、学校における集団感染を反映していると考えられます。ここで、新型インフルエンザの流行パターンについて、特徴的な2つの例を紹介します。
まず、日本の近畿地方の集団発生の様子です。急速に流行が立ち上がりましたが、そのピークにあたるころに多くの学校で休校措置をとり、さらに「神戸まつり」という大きなイベントを中止にしました(注)。そうすることで見事に流行が収束し、その後しばらく感染数は少ない状態で推移しました。
もう一つの例は米国のユタ州です。先の日本の例とは違い、だらだらと感染者数が増加しているのが分かります。文化的な背景もあると思いますが、学校閉鎖もしませんでしたし、宗教的な集会などがさかんに催され、社会の交流が緊密な地域であったことが要因だと考えられます。
ちなみに、6月4日時点のデータですが、日本(近畿地方)では、感染390例中、入院患者はなし。米国(ユタ州)では、489例中、入院患者数38、死亡例が2でした。
この日本での休校措置などの”大英断”は、世界中で注目されました。すなわち「これだけの的確な公衆衛生学的手法を用いれば、流行を押さえ込むことができる」というものだったわけです。
封じ込めから被害軽減への移行にとまどい
感染力を示すRO (Basic Reproduction Number) という指標があります。これは、一人の患者から発生する、2次感染者の数を表しているものです。今回の新型インフルエンザではROが 1.2から1.7 に収まることが、各国のデータから分かりました。通常の季節性インフルエンザでは 1.2から1.4 であることから、新型インフルエンザの感染力は、「ほぼ季節性のものと同じか、やや強い」と考えられます。
また、ほとんどの死亡例は、重症の一次性ウイルス性肺炎です。その重症例の50-80%に次のようなリスク要因がありました。妊娠(特に第3周産期)、ぜんそくまたは肺疾患、糖尿病などです。入院治療や抗ウイルス薬治療の遅れが重症を招くこともあります。
近畿地方(神戸)からの報告が示しているところでは、発熱よりも、咽頭(いんとう)痛やせきなどの前駆症状が数日前に発症していました。人は、のどの痛みやせきが出るといった程度では、日常行動をしてしまうわけで、発熱により家で休むという対策の前に感染を広めてしまった、と言えます。これが新型インフルエンザの”封じ込め”や、社会的に距離をとることによって”閉じ込める”ことが困難であった原因だと考えます。
以上、WHOの新フェーズは、施行後間もない状況であったため、受け入れ態勢が整っておらず混乱を招きました。インフルエンザ感染は予測不可能で、結果として封じ込め作戦は功を奏しませんでした。封じ込めから、被害軽減への移行にとまどいがあったのも事実です。とはいえ、パンデミック対策や抗インフルエンザ薬の備蓄はもちろん有用であり、それらの対応は柔軟に、そして科学に根差して行われるべきであるといえます。
(注)5月16日に開催予定のメインフェスティバルが中止されたが、7月19日に遅れて行われた。
(SciencePortal特派員 安田和宏)
進藤奈邦子(しんどう なほこ)氏のプロフィール
1990年東京慈恵会医科大学卒、英国で外科、血管外科、脳神経外科臨床研修。東京慈恵会医科大学腎・高血圧内科、感染症内科医局員を経て、98年国立感染症研究所感染症情報センターへ。2000年同センター主任研究官、02年からWHO(世界保健機関)で感染症アウトブレーク警戒対策、危険病原菌に対する感染制御などの担当を経て現在に至る。専門は内科、感染症学。インフェクションコントロールドクター。