福島第一原子力発電所の水素爆発によって、多量の放射性物質が大気中に放出された。福島県だけでなく、周辺の各地の計測値を見ても3月15-20日に高い放射線量が観測されている。しかし、放射線量はその後急速に低下して、東京周辺は自然放射能レベルに下がっている。一方、福島県や茨城県北部にはまだ高いところがある。
事故の直後の17日、厚生労働省は食品中の放射線量の暫定規制値を定め、その後、この基準値を超える食品や飲料水が見つかって大きな不安を呼んだ。しかし、食品中の放射線量も時間を追うとともに少なくなってきた。現在もなお規制値を超えたものが少数報告されているが、大多数の食品に汚染はない。また、基準を超えた食品は出荷されていないので、現在流通している食品は安全である。
こうして、原発に近い場所以外では事故直後の緊急事態は終わり、正常な状況に向かいつつある。しかし、原発に近い地域では、いまだに放射能汚染との戦いが続いている。そこで問題になっているのが、どの程度の放射線量ならどのくらい危険なのかという深刻な疑問だ。
広島、長崎、その他の経験から、100ミリシーベルト以上の放射線を浴びると、発がんのリスクが増加することが分かっている。国立がん研究センターの発表によれば、100から200ミリシーベルトの放射線のリスクは、野菜不足、あるいは受動喫煙でがんになるリスクとほとんど変わらない。200から500ミリシーベルトのリスクは、太り過ぎ、やせ過ぎ、運動不足、あるいは塩分のとり過ぎのリスクとほぼ同じ。500から1,000ミリシーベルトのリスクは、大量に酒を飲むリスクとあまり変わらず、1,000から2,000ミリシーベルトになると、たばこを吸い、かつ大量にお酒を飲む人のリスクに相当する。
100ミリシーベルト以下でもリスクはないわけではない。受動喫煙よりも小さいが、リスクはある。そのようなリスクをどのように判断するのかは、個人の選択の範囲だが、政府は20ミリシーベルトをひとつの限界にしている。
チェルノブイリで子どもの甲状腺がんが増えたのは、放射性ヨウ素で汚染した牛乳を飲み続けたためだ。日本の場合は、事故が起こった日から避難を始め、さらに、食品の暫定基準を5ミリシーベルトという値で厳しく規制もしている。子どもも大人も放射性物質で汚染された食品で内部被ばくを受ける可能性は、チェルノブイリに比べると極めて小さい。
明治時代の物理学者、寺田寅彦が昭和10年の随筆の中で書いている話だが、寅彦が軽井沢に行ったときに、浅間山が爆発した。すると爆発しているにもかかわらず、登っていった人と、あわてて下りてきた人がいたという話を紹介して、「物を怖がらなさ過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正当に怖がることはなかなか難しい」と書いている。放射線についてもまさにそのとおりで、放射線があったら怖い、ということではなく、どのぐらいの量ならどのくらい怖いのかを知ることが大事だといえる。
唐木英明(からき ひであき)氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒。1964年東京大学農学部獣医学科卒、東京大学農学部助手、同助教授、テキサス大学ダラス医学研究所研究員、東京大学農学部教授、東京大学アイソトープ総合センターセンター長などを経て2003年東京大学名誉教授。08年から日本学術会議副会長。食品安全委員会リスクコミュニケーション専門調査会の専門委員、世界健康リスクマネージメントセンター国際顧問を務めるとともに、任意団体「食品安全情報ネットワーク」代表としても、食と安全に関する誤解の是正と正しいリスクコミュニケーションの普及に力を入れている。著書に「牛肉安全宣言-BSE問題は終わった」(PHP研究所)など。農学博士。