「誤解の恐ろしさ - 安全な食品とは」
安全に対する国民の関心は高い。食品の安全性から医療、交通機関、原子力施設などいったんミスが起きると、容赦ない社会的糾弾にさらされる時代といえそうだ。一方、効果が厳密に検証されていない健康食品を多くの人たちが信じるような現実もある。こうした安全に対する国民の対応の危うさに不安を感じる人々も多い。おとぎ話と科学の違いを明確に知ることの重要性について積極的に発言し、社会にはびこる誤解を是正する行動に力を入れている唐木英明・日本学術会議副会長に食品の安全性を中心に正しいリスクコミュニケーションのあり方について聞いた。
―では専門的なことに疎い一般の人間はどうしたらよいのでしょう。
「食品添加物、残留農薬、遺伝子組み換え食品」と「普通の食品、喫煙、飲酒」の二つのグループを示し「どっちが危ないか」と一般の方に尋ねてみます。ほとんどの人が前者を挙げます。でも現実は、添加物、残留農薬、遺伝子組み換え食品は非常に厳しい規制が行われているので、リスクはものすごく小さいのです。実際にこれで何の障害も起きていません。でも、みんな気にします。
一方、普通の食品はどうかといえば、食べ過ぎとかバランスの悪い食事、さらに食中毒といった危険があるのです。最大の危険は喫煙と飲酒です。多くの人が致死量に近い量のアルコールを飲んでいるわけです。事故米で焼酎をつくってしまったので、全部回収して捨てたことがありました。焼酎の中に微量の農薬が入っているかもしれないという疑いからです。でも、その焼酎に含まれる多量のアルコール分の毒性と微量の農薬の毒性と、どっちが高いでしょう。焼酎のアルコールの方が何万倍も毒性は高いのです。平気でそれを飲みながら、それに含まれているかもしれない何万分の1の毒性のものを問題にしているわけです。
―そうした判断をしがちな中で、少しでもまともなリスク判断をする方法はないのでしょうか。
その大事な条件というのは、信頼というキーワードなのですね。われわれが安心できるということです。安心という感性を満足させるのは科学だ、と科学者は100パーセント信じています。でもこの100パーセントはうそなのです。「安全だ」と言うその科学者を信頼できるという感性の満足感がないと、人々は絶対に安心しません。安全と信頼が一対になって、初めて安心するのです。安心というのは安全だという言葉を信じられるということです。行政、事業者、そして食品輸出国はそれを最初に押さえておかなくてはいけないと思います。
もう一つ大事なことがあります。安全だという言葉を信じられると安心する。こうした通念をゴロッとひっくり返すものがあることです。利益情報です。利益があると思った途端に、危険情報を無視して安全情報を信じたいと思うのです。酒、自動車、健康食品、特に自動車なんて毎年5,000人もの人々が交通事故で死んでいますよね。食品だったら、即禁止です。なぜ禁止運動が起こらないのか。みんな利益を実感しているからなのです。
お酒も健康食品もみんな自分に利益があると信じているから、喜んでガブガブ飲むわけです。その結果、中毒を起こして亡くなった人までいます。「命かけて健康買おう」なんて冗談がありますけれど、それもみんな利益情報がなせることなのです。
―いいと思っているからどうしようもないということでしょうか。
逆に、添加物、農薬、遺伝子組み換え食品、ワクチンなど危険だと思われているものには本当は利益があるのです。特にワクチンは多くの人に利益があるのですが、ワクチンでだれの病気が予防できたのかが見えないため、利益があることが分からないのです。大勢の人がワクチンで助かっているのに、恩恵を受けている人たちはその利益を一切自覚できませんから。
一方、ワクチンの副作用は明確に分かります。副作用の被害者が出ると、ワクチンは怖い、となってしまうわけですね。ですから安心というのは安全プラス信頼に加え、もう一つ利益というのが入るわけです。安心は安全と信頼と自分の利益なのです。多くの人はこういうヒューリスティクな判断をしているということです。
さらに加えて、「安全の科学」を取り巻く問題というのは、ものすごく大きいのです。まず政治が非常に問題で、政権が不安定になると必ずポピュリズムの政策に走ります。例えば、遺伝子組み換えをやらないと日本のこれからの農業は成り立っていかないことは、ちょっと考えればだれでも分かることです。しかし、政治家がそれをきちんとやれません。それを言い出したら次の選挙で落ちてしまうかもしれないからです。反対と言った方が当選するということで、そういう方が農林水産省の大臣や副大臣にもなってしまうわけです。政治がポピュリズムに陥ると、10年、20年後の日本を考えた政治ができなくなってしまうのです。
これまでは行政の人たちが、先を見通してやっていたのですが、政治主導ということで行政官が何も言えない雰囲気になってしまっています。遺伝子組み換え、あるいは飼料添加物の認可が出なくなったり、いろいろおかしなことが起こっています。日本は病気の輸出国だといった非難すら外国から受ける事態になっています。接種義務のないワクチンがいくつもあるワクチン孤児の国に日本がなってしまっているためです。
また、企業はやはり利益優先ですから、健康食品や、無添加・無農薬食品など科学的根拠のない商品でもうけようとしているところがたくさんあります。
―科学者がもう少し社会的な役割、責任を果たせないものでしょうか。
科学者も非常に問題です。科学が非常に進んでしまったので、自分の専門だけに力を入れないと、その分野で一流になれません。もう少し広い視野を持ち、科学技術の社会的な影響というものについても関心を持たなくてはいけないのですけれども、その暇もなくなってしまっています。縦割り科学とかタコつぼ科学などと言われる状況に陥ってしまっているのです。
科学者の倫理、研究者の倫理にかかわってくるのですが、例えば医療の場合で言えば、病院運営のために無駄な延命医療にお金をたくさん使っています。そういうことに対する科学界からの批判が非常に出にくい状況があります。
それからメディアも、問題があります。輿(よ)論と世論が全然違うということを分からない人もいっぱい出てきてしまって、近視眼的な報道が多くみられます。私は2つの会をやっています。一つは「食の信頼向上を目ざす会」で、メディア関係者との勉強会、意見交換会を定期的に続けることによって、不適切な記事をあらかじめ防止するというのが目的です。リスク管理活動といえるでしょうか。
にもかかわらず問題のある記事が出てしまった時には、意見を言って再発を防止しようというのがもう一つの「食品安全情報ネットワーク」です。こちらは危機管理活動といえるでしょう。この2つの活動がうまく回り、あるいは幾つかの団体が同じようなメディアウォッチ(監視)をしてくれると、おかしな記事はなくなってくるのでは、と期待していますが…。
最近、食品安全情報ネットワーク方の活動に関して非常に残念なのは、「コンビニでチルド弁当を始めたので、添加物が少なくなって健康志向に非常にいい」という全国紙の記事が出たことと、それに対する新聞社の事後対応です。「添加物はもともと悪くないのに、それを少なくしてなぜ健康にいいのですか」という質問状をその新聞社に送りました。これに対し「これは社会現象を書いたものであって、添加物の毒性について書いたものではない。これ以上の議論はしない」という編集委員名の文書が返ってきました。問答無用というのは驚きですが、こうした経緯も食品安全情報ネットワークのホームページに詳しく掲載しております。
(続く)
唐木英明(からき ひであき) 氏のプロフィール
東京都立日比谷高校卒。1964年東京大学農学部獣医学科卒、東京大学農学部助手、同助教授、テキサス大学ダラス医学研究所研究員、東京大学農学部教授、東京大学アイソトープ総合センターセンター長などを経て2003年東京大学名誉教授。08年から日本学術会議副会長。食品安全委員会リスクコミュニケーション専門調査会の専門委員、世界健康リスクマネージメントセンター国際顧問を務めるとともに、任意団体「食品安全情報ネットワーク」代表としても、食と安全に関する誤解の是正と正しいリスクコミュニケーションの普及に力を入れている。著書に「牛肉安全宣言――BSE問題は終わった」(PHP研究所)など。農学博士。