春分の日を珍しくほとんど家で過ごす。立花隆氏の監修・司会進行で有名な自然科学研究機構主催の“お彼岸”シンポジウムが、毎年、この日に開かれている。書いたものを読んでもさっぱり頭に入らない。直接、人に聞かないと…。長年の記者生活でそんなスタイルにすっかり染まってしまった人間には、実にありがたい催しだ。基礎科学分野の研究者たちが次々に最新の知見を紹介するのに終日、聴き入る、というのがここ数年の過ごし方だった。ところが、今年は、あきらめざるを得ない。毎年満員になるシンポジウムだから、事前の参加登録が必要なのに、うっかり忘れてしまったからだ。
16日に亡くなった吉本隆明氏について、新聞各紙が繰り返し大きな紙面を割いている。各紙の死亡を伝える記事と文化面に掲載された著名な作家や学者などによる追悼文を読んで、あることに気付いた。氏が学者、文筆家、学芸記者たちのいずれに対しても、気取ったり、煙に巻いたりする言動を一切取らなかったということが、どの記事からも一様に読み取れるということだ。氏の著作を一つとして読んだことのない編集者にも、氏の業績の大きさと、人となりがどの記事からもよく伝わってきた。
シンポジウムの代わりに区立図書館に出かける。早速、氏のコーナーができており、著書の多さ、多様さにあらためて驚く。各紙の記事のほとんどに出ていた代表的著書はパスして、「少年」(徳間書店、1999年)と「夏目漱石を読む」(筑摩書房、2002年)を借りた。
「少年」は氏自身が幼少のころ過ごした新佃島(現・東京都中央区佃2丁目)の思い出から始まって、いじめという現象が、大人の常識では簡単に正邪の判断を下せないものだということなどを、実に分かりやすく解き明かしている。無論、氏自身、いじめたりいじめられたりの幼少時を送ったことを隠さない。この本が書かれて10年以上たつが、いじめについての新聞、テレビの報道が「いじめる側を悪と決め付け、最悪の結果を防げなかった学校の責任を激しく追及する」パターンから一歩も出ていないことを、あらためて考えさせられた。
編集者が特に興味深かったのは、「悪ガキとの別れ」という章だ。氏は小学5年生の時、新佃島から隅田川にかかる相生橋を渡り、門前仲町にあった学習塾に通い始める(石関善治郎著「吉本隆明の東京」では小学4年の春からとなっている)。学習塾といっても、今のように私立有名中学や公立の中高一貫校に入るためだけが目的の塾ではなかったようだ。氏自身、非常に多くのことを身につけることができたと書いている。とはいえ、通い出した当時の本人にとっては一大事件には違いない。毎日一緒に遊び暮らしていた仲間と、突然別行動をとらざるを得なくなった心境は、次の記述からも十分、想像できる。
「おまえ勉強か、と悪童にからかわれて、恥ずかしく寂しくて仕方がなかった。…なぜひとは気心が知れ、もう二度と遭えないような信頼する仲間と別れて、ただ自分だけが真面目くさった表情をしなければならないのか」
編集者は学校の運動部活動以外、塾や習い事とは無縁な幼少時を送った。吉本氏のような思いは経験せずに済んだ。ただ同年齢や前後の年代には、最寄りの中学校に行かず、教育レベルが高いという評判の国立大学付属中学や私立中学に通ったという人間は、身の周りにも結構いる。しかし、それが不本意だった、あるいはそれまでの遊び仲間に引け目を感じた、などと吉本氏のように率直に語った人間はいない。
「夏目漱石を読む」からも、氏が乳幼児期、さらには母親の胎内にいる時期までさかのぼる乳胎児期の体験を非常に重視していることがよく分かる。無論、氏の漱石に対する評価は非常に高い。同時に、両親の意思で里子にやられ、さらにその後、養子にも出された乳幼児−少年期の体験に何度も切り込んでいる。それが原因で「パラノイヤ性の病気か病気に近い、あるいは性格」を持つようになった、とはっきり指摘し、同時にそれが大きく影響して多くの作品が生まれたということを丹念に解き明かしている。
前述の「吉本隆明の東京」(作品社、2005年)は、新佃島からお花茶屋、駒込、田端、仲御徒町、谷中、千駄木、本駒込と吉本氏が住んだ家々とその界隈(かいわい)を氏と一緒に、あるいは著者一人で訪ね歩いて書き上げたユニークな本だ。著者の石関善治郎氏は編集者の高校の同級生である。マガジンハウス社で、雑誌「鳩よ!」「自由時間」「楽」などの編集長として活躍した。
その本の序に、著者が「現代詩の傑作」と評する吉本氏の詩「佃渡しで」が引用されている。娘さん(吉本ばななさんだろうか?)と一緒に、悪ガキたちと過ごし、別れた新佃島を訪ねた時のことをよんだその詩の中に次のような言葉があった。
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった