「子どもを大事にする国に」
少子高齢化はいまや日本社会を表す最も代表的な言葉になっている。一方、高齢者に対してはさまざまな形で政府の予算が投入されているのに比べると、子どもに対する公的支援は恐ろしく貧弱だという声もよく聞かれる。子どもへの関心、支援が二の次になっている理由の一つは、深刻な現状を多くの人が十分に知らないからではないか。小児科医として、子どもの健康、生育環境がないがしろにされている現状に警鐘を鳴らし続けている五十嵐隆・東京大学大学院小児科教授に、日本の子どもたちの置かれている危機的な状況について話してもらった。
―増える小児虐待
児童虐待防止法は虐待事例の報告を義務づけています。児童相談所に寄せられた虐待通告の数は、年々増え続けています。死因が明らかにおかしいと思われる子どもたちの数も、大変多くなっています。ある研究班が死因を調べているので、表に出ていない虐待によって子どもが死んでいる実態が、恐らく近いうちに明らかにされると思われます。
特徴的なことは、虐待のターゲットになるのが小さな赤ちゃんで、ゼロ歳児が最も多いということです。私たちが経験した例でも、熱がないのにけいれんを起こしているお子さんが来たことがあります。CT(コンピュータ断層撮影)を撮ると、硬膜下血腫(しゅ)が見られました。赤ちゃんを揺さぶることで起きるシェイクン・ベイビー・シンドロームの犠牲者だったのです。
―子どもを代理にした「ほら吹き男爵症候群」
さらに昨今報道されますが、子どもを代理にする「ほら吹き男爵症候群(ミュンヒハウゼン症候群)」というお母さんの心の病があります。子どもが重篤な急性症状を繰り返している、と親が訴えるなど、子どもに症状や異常所見をつくり出し、入院させたり手術を受けさせたりします。一種の詐病ですが、子ども本人ではなく親が病気をつくり出すわけで、広い意味で小児虐待の一種です。子どもを病気に仕立て上げ、かいがいしく看病する姿を他人に見せることで、母親が自分の自尊心、満足感を満たすわけです。ほとんどの場合、母親がその役割を演じています。
3年前から1日に10回以上の下痢があり投薬の効果もない、と総合病院からの紹介で入院した6歳児の例があります。想定される疾患に関するあらゆる検査をしましたが、原因が分かりません。ある夜、消灯時間である午後9時過ぎに、この子どもがおう吐しました。吐物に黒い錠剤が見つかりました。市販の下剤で、母親が消灯後、毎日母親が栄養剤といって飲ませていたのです。実は、その1年くらい前にカビによる重症の肺炎を起こし、重篤な状態に陥ったこともあると後で分かりました。これは点滴に母親が自分のつばを入れてカビによる感染症を作っていたのです。
当時は、児童相談所に通報しても「ほら吹き男爵症候群」という病気をなかなか理解してもらえず苦労しました。母親を実家に帰し、子どもから分離することで、子どもの安全を図ることができました。
母親が直接、子どもに手を出さないが、病検体に操作をしてタンパク尿陽性という状態を作って入院させた、という例もあります。母親が子どもの尿検体にホットケーキパウダーを加えていたことが分かりました。にせのデータを作って、医療関係者が間違った判断をしてしまうということもごくまれにあるということです。
このような子どもを代理にした「ほら吹き男爵症候群」の特徴は、病気を作り出す人がほとんど母親ということです。夫や家族から愛されていない、尊敬されていない母親が多く、病的な自己顕示欲の裏に、自信のなさや強い劣等感を持っている人たちと考えられます。こうした人たちを精神科で診てもらおうとしても、なかなか受診してもらえないという深刻な問題もあります。小児科医は、母親の言うことは基本的にすべて正しいという前提で診断や治療方針を決めるわけですから、だまされなくては小児科医ではないと思っています。正しい情報を与えるという前提条件を覆す人がいるというのはこれからの問題だ、と感じています。
―偏った食事法の悪影響
ある食品に対して「非常によい」あるいは「非常に悪い」と一方的に判断、解釈してそれを母親が子どもに適用することによって子どもに健康被害が出ています。フードファディズムという高橋久仁子・群馬大学教育学部教授が初めて日本に紹介した概念です。健康への好影響をうたう食品の爆発的な流行を言いますが、思い当たる人が多いのではないでしょうか。紅茶やココア、最近ではバナナが体にいいとなると店頭から突然なくなってしまうことがありましたね。食品・食品成分の薬効を強調したり、逆に食品に対する不安を扇動するといった食品に対する根拠のない情報を信じてしまうフードファディズムの親のせいで、子どもたちが栄養失調になるといった例が実際に起きています。
メディアから発信される栄養情報番組と栄養情報娯楽番組の違いに親は注意する必要があります。動物性食品や砂糖を排除し、一部の野菜や果物も排除し、穀類を中心とした食事法で育てられる子どもが栄養失調になることがあるのです。また、親が太っていることを悪いと考えることが、子どもに誤った食生活を強要する大きな原因にもなっています。最近、新生児の出生児体重が3,000グラムを切ることが多くなっていますが、バーカー説の観点から見ると現在の子どもが成人になったときに高血圧、心筋梗塞、慢性腎不全などの成人病が増加することが心配されます。
バーカー説というのは、英国のコホート調査で明らかにされた20世紀最大の医学的学説といわれており、その正当性が最近になって証明されています。胎児期に低栄養状態であることが成人になってからの心筋梗塞(こうそく)や高血圧などいわゆる心血管障害のリスク因子になるという学説です。出生児の体重が分かっている人たちが50年後、60年後にどういう病気にかかっているかを調べた結果、このような学説が出てきました。つまり、小さく産んで大きく育てるということには実は大きな問題がある、と心配されています。
(続く)
五十嵐隆(いがらし たかし) 氏のプロフィール
1978年東京大学医学部医学科卒業、82年東京大学医学部付属病院小児科助手、85年米ハーバード大学ボストン小児病院研究員、91年東京大学医学部付属病院分院小児科講師、2000年から現職。医学博士。日本学術会議会員。日本小児腎臓病学会理事長、国際小児腎臓学会理事、日本小児科学会評議員なども。