1985年から始まったDNA型鑑定の急速な進歩には目を見張るものがある。当初犯罪捜査に応用されたDNAフィンガープリント法は親子鑑定には驚異的な威力を発揮したが、その後高分子DNA試料しか検査できないという技術的問題や再現性の問題などから、犯罪捜査に使用されなくなった。代わりに犯罪捜査に注目されてきたのが、PCR(Polymerase Chain Reaction)増幅法を用いたDNA型鑑定法であった。日本では、1989年よりMCT118(D1S80)型によるDNA型鑑定法が犯罪捜査に応用され、1992年に「DNA型鑑定の運用に関する指針」が定められた。
再審無罪で有名になった足利事件は、1990年5月に発生し、科学警察研究所のDNA型鑑定が報告されたのは翌91年12月であり、最先端のDNA型鑑定で犯人を逮捕したということで新聞記事にも大きく報道された。一審・控訴審で無期懲役判決後、拘置所内のS 氏の毛髪のDNA型検査を弁護側から小生が依頼された。慎重に検査したところ、判決で指摘された犯人のDNA型と異なるDNA型が検出された。真犯人でない人を逮捕したのか、警察のDNA型鑑定が間違っているのか、いずれにしても重大な結果であるので、正確に記載した検査報告書を作成し、弁護士に提出したのが1997年9月であった。しかし、上告していた最高裁にこの報告書が提出されたにもかかわらず、この件に関して一切の記載もなく無期懲役の判決が確定した。その後の長い再審裁判を経て(この間に時効成立)、再審のDNA型再鑑定により、無罪ではない完全無実の判決が確定したのは今年2010年3月であった。
検査報告書を裁判所に提出した当時に再DNA型鑑定を施行していれば、裁判所の真相究明の姿勢が尊敬されたのに、という思いと、再審請求を却下した理由の科学的根拠の無さに絶望した想いが交錯していた。
現在犯罪捜査に応用されているマルチプレックスSTR(Short Tandem Repeat)法では、通常15ローカスの型と性染色体を検査しており、通常では10の20乗分の1のレベルの鑑別が可能である。足利事件では試験的で不正確なDNA型鑑定により逮捕され、最先端の正確なDNA型鑑定で無実が証明されたのである。正確な再現性のあるDNA型鑑定では犯罪捜査により犯人を追い詰めることが可能であり、同時に犯罪に関与していない人を確実に除外することも可能な鑑定法である。
この7月30日の布川事件再審第2回公判(水戸地裁土浦支部)で、検察官申請のDNA型鑑定が却下された。布川事件は1967年に発生した殺人事件で、2人が犯人として無期懲役の判決が確定し、29年間の懲役後仮釈放となり、再審請求中であった。(1)43年間に及ぶ遺留物の無神経な保管状態(DNA型鑑定のことは一切考慮されていない)、(2)「被疑者は実物を目の前に置かれて取り調べを受けた」ということであり、唾液(だえき)が混在している可能性もあり、(3)DNA型鑑定を万能視して、検察側がこの時期に鑑定申請したのは疑問である—。このような点を裁判官が理解して、今回申請されたDNA型鑑定を却下した見識は評価できるとして、新聞にコメントを述べた。
長期間にわたる足利事件の経過を、DNA型鑑定の評価の変遷として考察してみると、最先端の技術をいつ、どのように実務に応用するかについて多くの教訓を得ることができよう。科学鑑定の条件として、次の検討が重要である。(1)鑑定試料の採取・保管に問題はないか、(2)鑑定方法は適切であるか、(3)鑑定結果の考察が十分か、さらに(4)再鑑定が保証されているか—。日本の犯罪捜査においてDNA型鑑定の重要さに疑問を呈する人はいないが、現実に相談を受けている事例では、疑問が生じた時に再鑑定が不能になっているケースが目についている。つまり、試料が十分あるはずなのに「全量消費」、「鑑定試料が行方不明」というケースが見られているのである。
最先端の科学技術を応用する鑑定人の誠実さと慎重さが今こそ求められており、科学者の良心が正に問われているのである。このような点に配慮して、発刊したのが、「Q&A 見てわかるDNA型鑑定(現代人文社)」である。主に法律家向けの著書であるが、国民から選ばれる裁判員にも参考にできるように、分かりやすく解説したDVDも添付した。
足利事件の一審判決(1993年)後に、「DNA鑑定神話の崩壊」を掲載した雑誌「AERA」のマスコミ魂を痛切に感じる一方で、最高裁決定後に発表したDNA型鑑定礼賛の論文の再評価も厳しく行わねばならない。先端鑑定に関する新聞を含むマスコミの刑事裁判に及ぼす影響に関しても真摯(しんし)な検討が必要であることを痛感している。
押田茂實(おしだ しげみ) 氏のプロフィール
埼玉県立熊谷高校卒、1967年東北大学医学部卒、68年同大学医学部助手、78年同医学部助教授、85年日本大学医学部教授(法医学)、2007年日本大学医学部次長、08年から現職。数多くの犯罪事件にかかわる法医解剖、DNA型鑑定、薬毒物分析のほか、日航機御巣鷹山墜落事故、中華航空機墜落事故、阪神・淡路大震災など大事故・大災害現場での遺体身元確認作業などで重要な役割を果たす。編著書に「Q&A見てわかるDNA型鑑定(DVD付)(GENJIN刑事弁護シリーズ13)」(押田茂實・岡部保男編著、現代人文社)、「法医学現場の真相-今だから語れる『事件・事故』の裏側」(祥伝社新書)、「医療事故:知っておきたい実情と問題点」(祥伝社新書)など。医療事故の解析もライフワークとしており、「実例に学ぶ-医療事故」(ビデオパックニッポン)などのビデオシリーズやDVDもある。