「法医学の役割-安全で冤罪許さない社会目指し」
誤りだったDNA鑑定で、無実の菅家利和さんが長年、殺人犯の汚名を着せられ、自由を奪われていた足利事件が投げかけた問題は大きい。信頼性のないDNA鑑定を信じ込み、後から出された正確なDNA鑑定の意味をなかなか理解しようとしなかった裁判官の科学リテラシーに問題はないのだろうか。科学的な捜査、裁判に大きな役割を果たす法医学は司法の世界で十分、尊重されているのだろうか。長年、法医学の第一線で活躍、菅家さんに対するDNA鑑定の誤りを最初に指摘し、再審、無罪確定への道を開いた押田 茂實・日本大学医学部(研究所) 教授に、法医学の現状と司法界の問題点などを聴いた。
―誤った鑑定を裁判官が見抜けず凶悪事件の犯人とされた方々の一生も悲惨ですが、医療裁判に対しても医師側から批判の声が聞かれます。こちらも逮捕、起訴となったらその医師の人生は事実上その時点で終わってしまうか、よくても長年、凍結されてしまいます。警察官、検察官、裁判官に個々の医療行為を判断し、白黒をつける能力などあるのか、という強い不満だと思いますが…。
実は私のライフワークは医療事故訴訟です。医療事故の裁判では、相当因果関係の有無が問われます。民法の場合ですと、現実に生じた損害のうち、債務不履行あるいは不法行為があれば通常生じるであろう損害を賠償すればよい、という考え方です。法科大学院で講義するとき私は「相当因果関係というのは、相当いい加減な関係だ」と話しています。院生たちはゲラゲラ笑いますが、講義を聴き終わった時には皆、シーンとなります。
なぜかというと、どの裁判官に当たるかによって同じようなケースでも勝ったり負けたりの判決なのです。やってみないと分からないということです。普通の損害賠償請求訴訟、例えば「貸したお金を返せ」という裁判で、訴えられた被告に「お金を返せ」という判決が出るのは、全体のどのくらいと思いますか。
―少ないのでしょうか。
いえ、約85%は「借りたものは返しなさい」という判決が出ます。問題はその次です。判決に不満な被告が「既に一部返しているではないか」などと控訴することがあります。その結果、判決が覆って「返さなくてもよい」となるケースはどのくらいあると思いますか。家を探してみたら領収書が出てきたなどという事実認定が後で変わる例がありますから、逆の判決が出ることはあるのです。しかし、せいぜい数%です。これで、世の中の秩序は保たれているわけです。裁判官が一度「返しなさい」と言ったら、違う事実が出てこない限り、ひっくり返ることはありません。
ところが、医療関係の訴訟は違います。一審判決で1億円の損害賠償を請求されたとします。そして、5,000万円払えという判決が出たとしたらどうでしょう。大抵の場合、医師は怒りますよ。「まじめに医療行為をしたのに、何ということを言うのか」と主張して控訴します。こうしたケースで、「5,000万円払え」という判決が、逆に「払わなくてもいい」と覆る確率はどのくらいだと思いますか。
3-5割あるのです。一方、1億円の請求に対し「払わなくてもよい」という1審判決が出た場合はどうでしょう。患者側弁護士の中には非常に勉強している人がいて、「冗談じゃない。治療に失敗したから子供が脳性まひになっているのに」などと主張して控訴します。その場合の判決がどうなるか。5割は一転「金を払え」となるのです。
普通の裁判では、裁判官がこうと言ったらまず終わりです。3割も5割も判決が覆るのは医療訴訟しかありません。「医療訴訟はやってみなければ分からない。だから“いい加減な関係”だ」と言うと、私の講義を聴いた院生たちは皆「なるほど」となるわけです。
こういう現状を変えるためには、医療のことも法律のことも分かる裁判官が必要です。裁判官が一度「こう」と言ったら変わらないというレベルにしないと日本の医療訴訟はおかしい。例えば、このように言ったという録音があるなど新しい事実が出てこない限りは、判決は変わらないようにしないと―。40年間、私が言い続けていることです。特に医療に関しては、日本の裁判は行き当たりばったりだ、と言わざるを得ません。
―損害賠償だけでなく、業務上過失致死傷罪かどうかが問われるケースは、医師にとっても患者の家族にとっても深刻な話になりますね。
1999年に4歳の幼児が綿あめの割りばしがのどに刺さり、翌朝、死亡したのに対し、救急車で運ばれた大学病院の医師が起訴されたことがありました。この医師は9年後に無罪が確定しました。損害賠償を求められた民事訴訟でも、請求は高裁で棄却され確定しました。しかし、この医師は長期間被告として、悪い人物だと報道され続けたのです。これでよいのでしょうか。あまりにも人権を無視していませんか。
2001年に東京女子医科大学で心臓移植手術を受けた12歳の小学生が亡くなったケースでは、カルテを書き直した医師は懲役刑の有罪判決を受けました。しかし、人工心肺を操作しており業務上過失致死罪に問われた医師は、結局、8年後に無罪判決が確定しました。この医師は事件について書籍を出版した会社と記者を名誉棄損で訴え、認められました。
2004年に帝王切開手術中に妊婦が亡くなった件で、業務上過失致死などの疑いで起訴された福島県立病院の産婦人科医師も4年後の判決は無罪でした。この医師は復職しましたが、裁判の間は医師としての活動はできませんでした。こんなことがあってよいのでしょうか。
一般の刑事事件では、日本で起訴されると99.8%有罪です。医療裁判では2-3割が無罪です。10年間も悪徳医師であるかのように言われ続けたのは、一体何だったのかということです。関係した人たちの人権はどうなるのか。「悪徳なものは決して許さないけれども、疑わしいものは罰せずという大原則でいかなきゃだめだ」と私はずっと言い続けています。昨年12月の第41回医学系大学倫理委員会連絡会議でもこのテーマを取り上げて検討しました。
―一方、医療事故というのはゼロにはできませんね。医療事故予防のための先生の取り組みについて伺います。
これは少し自慢してもよいと思いますが、医療事故がなぜ起きたのかを再現ドラマとして、事故防止につなげようという目的で監修した医療関係者向けのビデオが3シリーズ、計12巻にもなりました。1985年に日本大学の教授となりましたが、法医学実習は他大学に見られないくらい充実していました。さらにカリキュラムの一部を変更して医療事故に関する講義を6年生に実施したのが、きっかけとなりました。その後、死亡事例についての再現ドラマを含め、判決がどうなったかといった新しい講義を担当するようになったのが、全国紙や通信社の記事として取り上げられました。
ビデオ制作のきっかけはふとしたことでした。あちこちの学会で何度も講演をしたのですが、全国紙主催の講演会の際、その新聞社の人に「ビデオがあれば講演を聴けない人たちにも広く知ってもらえる」と話しました。その人の口利きで「実例に学ぶ医療事故」という6巻のビデオを「ビデオ・パック・ニッポン」から発行することができたのです。これが1999年12月で、ちょうどその年に心臓と肺を取り違えて手術してしまったケースや東京都立病院で薬を誤って投与してしまったため患者が死亡するという事例が発生し、医療事故に対する社会的な関心が急に高まった時期でした。
その後「続・実例に学ぶ医療事故」3巻、さらに「実践して学ぶリスクマネジメント」3巻と次々に出したのですが、これらが飛ぶように売れたのは当初、全く想像もしなかったことです。大金をかけて制作し、売れなかったらどうしよう、と悲壮な覚悟でしたから、著作権料も権利放棄、出演してもらった日本大学板橋病院の200人以上の教職員も出演料は無料でした。最近はこれらをDVDとして販売しています。今になって思うと少しくらい著作権料をいただいてもよかったかな、と思わないこともありませんが…。
医療事故のうち、民事裁判にまで持ち込まれるのは医療紛争全体の1割程度ではないかと思われます。「裁判の結果がどうなるかは裁判官次第」という“相当いい加減な関係”の現状を変えることとともに、医療事故そのものを防ぐことも大事です。これも法医学者として重要な責務だと考えています。
法科大学院に医師免許を持った学生が増加しており、司法試験に合格したダブルライセンス所持者が弁護士のみならず、立派な裁判官、検察官になってもらいたいと願っています。
(続く)
押田茂實(おしだ しげみ) 氏のプロフィール
埼玉県立熊谷高校卒、1967年東北大学医学部卒、68年同大学医学部助手、78年同医学部助教授、85年日本大学医学部教授(法医学)、2007年日本大学医学部次長、08年から現職。数多くの犯罪事件にかかわる法医解剖、DNA型鑑定、薬毒物分析のほか、日航機御巣鷹山墜落事故、中華航空機墜落事故、阪神・淡路大震災など大事故・大災害現場での遺体身元確認作業などで重要な役割を果たす。編著書に「Q&A見てわかるDNA型鑑定(DVD付)(GENJIN刑事弁護シリーズ13)」(押田茂實・岡部保男編著、現代人文社)、「法医学現場の真相-今だから語れる『事件・事故』の裏側」(祥伝社新書)、「医療事故:知っておきたい実情と問題点」(祥伝社新書)など。医療事故の解析もライフワークとしており、「実例に学ぶ-医療事故」(ビデオパックニッポン)などのビデオシリーズやDVDもある。