種子植物が子孫を残すための受粉には「自家受粉」と「他家受粉」がある。鮮やかな高山植物の多くは他家受粉だけに頼り、虫に花粉を運んでもらって子孫を維持しているー。北海道大学の1人の研究者が大学院生と約30年間、美しい大雪山系で生態調査を続け、高山植物の繁殖はハチなどの昆虫に託されている実態を明らかにした。これまで高山植物は環境の厳しさなどから自家受粉が多いとみられていたが、長い間の地道で粘り強い野外調査がこれを覆した。
この研究者は北海道大学大学院地球環境科学研究院の工藤岳准教授。工藤さんは東京都の出身で、東京農工大学農学部で林学を学んだ後、北海道大学の大学院で環境保全学を専攻し修士・博士課程を修了した。1991年の9月のことだった。
工藤さんは大学時代、日本各地の山々を登っていた。「山で高山植物と出会い、その生きざまを研究したい」と強く思った。そして大雪山系の雄大な自然の姿に感銘を受けて北海道に渡ったという。
大雪山系は北海道中央部に位置する旭岳などの山々からなり、一帯は大雪山国立公園に指定されている。四季を通してその雄大な美しさが一望できるうえ、日本最大の高山生態系として高山植物の宝庫としても知られる。
北海道大学では高山植物と昆虫との“交歓”とも言える相互関係の調査を、大雪山系を舞台に続けてきた。最初は1人で始めた研究だったが、後輩の大学院生が仲間に加わり、その人数は延べ約10人を数える。
寒暖差が大きな生育環境
植物の分類は多くの場合中学1年で学ぶ。種子植物のうち被子植物でめしべの先端(柱頭)に花粉が付着するのが受粉だ。受粉には花粉が同じ花の柱頭に付く自家受粉と、異なる株の柱頭に付く他家受粉がある。
いずれも種、つまり子孫を残すための繁殖システムで、植物全体では他家受粉が多い。しかし、鮮やかで美しい花を咲かせる種が多い高山植物が生息する高地は、寒冷で強風も多く気候環境は厳しい。花粉を運ぶ昆虫の活性は低いことから、自家受粉や無性生殖が多いと考えられていた。
工藤さんらの研究拠点は標高1700~1900メートルの大雪山系最奥部の高地だ。拠点といっても建物があるわけではない。毎年、高山植物の生育シーズンである6月から9月上旬の時期に野外テントを設営して調査を続けた。工藤さんによると、日本には約400種の高山植物が生育しているが、大雪山系には虫が送粉する虫媒花植物が100種も生育している。
研究調査期間の2002年から20年までの標高1700メートルの年間平均気温はマイナス1.9度、1月はマイナス16度、8月は12.5度で寒暖差が大きい。夏季は降水量が多く、8月は356ミリもあった。一方冬季は北西の風が吹き、山の南東斜面に雪が凍結するなど植物にも昆虫にも厳しい気候環境だった。高山植物の生育は6月上旬から始まるが、生育期間は融雪期間で異なる。
85%は他家受粉だけだった
工藤さんらが約30年の長い期間調べた高山植物は種の数だけでも46。観察した植物は数え切れないほど多い。これまでに延べ117地点で植物一つ一つについて開花時期や花粉を運ぶ数多くの昆虫たちを丹念に観察し、記録した。そして送粉、受粉実態や結実率などの調査を続けた。
こうした実に約30年に及ぶ生態調査の結果、調査対象の虫媒花植物46種の85%は他家受粉だけで種子が作られていた。自家受粉が可能な種もあったが、ほとんどの高山植物は自家受粉できず「自殖」の能力はなかった。つまり「他殖」だけで、花粉を媒介する昆虫の影響を強く受けている実態がはっきりした。
花は種によって子孫を残す手段として自家受粉・自殖か他家受粉・他殖のどちらかを主にしているが、一方だけに特化している種は多くないとされる。他家受粉・他殖に特化した植物が85%という割合は、地球上の多様な環境に生育する植物の平均よりもはるかに高い。高山植物の多くの種は鮮やかな花を咲かせ、昆虫を誘引していたのだ。
効率は低いが数で稼ぐイメージ
また、高山植物を訪れる昆虫の 61%はハエやアブなどのハエ目昆虫で、36%はマルハナバチ類。ほとんどの植物はハエ類かマルハナバチ類に花粉媒介を頼っていた。一般にハエ類は「送粉効率」は低いと考えられていたが、開花期間を通して多数のハエが訪花するため、多くの植物の重要な送粉者であるという実態も確認できた。
送粉効率とは花粉運搬能力のことで、訪花の際におしべから持ち出した花粉のうち、他の植物のめしべに送り届けた割合。ハエは同じ花に長くとどまったり、違う種類の花間を移動したりすることも多い。このため、当てにならない送粉者と思われがちだが、季節を通して頻繁に花にやってくる。一度の送粉効率は低いが、数で稼いでいるイメージだという。
一方、マルハナバチは花粉を運ぶ能力が優れていることが知られていたが、働きバチが現れるのは高山植物生育シーズン(6月から9月上旬まで)の後半になってから。その前の時期の送粉は十分行われない。このため、ハチ媒花植物の結実率は季節の進行に伴って増加する傾向がはっきりしたという。
マルハナバチは同じ種の花を繰り返し訪れる傾向が強いために、植物にとっては優れた送粉者ということになる。しかし送粉、植物にとっては受粉の時期が限られる。このほか、同じ植物種でも雪解けの遅い場所では開花時期が遅くなり、結実率は高くなる傾向があったという。
遺伝的多様性が適応能力を向上する可能性
こうした調査結果の数字をはじき出すまでには、地道で粘り強い観察や調査の積み重ねがあった。工藤さんによると、大学から調査地点までは6、7時間かかった。大雪山系は他の山岳地帯と同じように天気は不安定。せっかく調査地点に向けて登っていても、天気の急変で調査をあきらめて下山することも度々だった。調査は「天気次第」で日程調整が難しかったという。
「(調査地点までの行き来は)研究室の大学院の学生にとってはつらい時もあったと思うが、そんな彼らと高山植物の一つ一つの種について、その繁殖の特性を丹念に調べた。そして多くの研究論文として学術誌に公表してきた」と工藤さんは振り返る。今回の研究成果の論文はそれまでに積み上げた調査結果を「統合的に解析した」のだという。
そして「なぜ高山植物で他家受粉への依存度がこれほどまで高いのか。その理由を明らかにするにはさらに研究が必要だ。高山の厳しい生育環境では遺伝的多様性を高めることで生存力を強め、多様な環境への適応能力を向上させている可能性が考えられる」と指摘する。
気候変動の影響研究にも注力
工藤さんはこれまでに市民ボランティアとともに大雪山で高山植物の開花調査を行い、開花期間は気温の影響を大きく受けることも明らかにしている。調査結果から温度が高いほど開花の進行が速く、1度気温が上昇すると開花期間は約4日短くなるなどと予測している。
現在、力を入れている研究テーマは「気候変動の高山生態系への影響」。気候変動が及ぼす植生変化や開花時期の変化、さらに植物と昆虫の相互作用への影響などに関連した調査を続けている。
「大雪山の高山生態系は長年通っても毎年新たな発見がある。人間の影響をほとんど受けていない原生の自然の中で研究を続けてこられたのはとても幸せなことだと感じている」。今年も6月に入り、工藤さんと若い大学院生らが待っていた調査の季節がやってきた。
関連リンク
- 北海道大学プレスリリース「高山植物がきれいなのは虫に花粉を運ばせるためだった」