レビュー

10万人犠牲の関東大震災から100年 世代超え記憶を受け継ぐ

2023.09.01

草下健夫 / サイエンスポータル編集部

 近代日本の首都圏に未曾有の被害をもたらした1923(大正12)年の関東大震災から1日、100年を迎えた。東京や神奈川を中心に火災や建物倒壊、土砂災害などで実に10万人超が犠牲になった。同日は「防災の日」とされ、各地で防災訓練が行われるなどして定着しているが、もはや当時を知る人も少ない。そもそもどんな地震だったのか。首都圏を再び大地震が襲う恐れを、専門家集団はどう評価しているか。私たちは世代を超えて記憶を受け継ぎ、災害に備えなければならない。

身近な遺構が伝える惨状

 100年前の9月1日。東京府鶴川村(現東京都町田市)の春日神社は例大祭を迎えていた。地元の有力者から寄進された石造りの大鳥居のお披露目もあり、境内は子供を含む老若男女でにぎわっていた。ところが午前11時58分。突然、立っていられないほどの激しい揺れが襲った。「鳥居のそばから離れろ」と叫ぶ声が響き、人々が驚き逃げ惑う中、真新しい鳥居が倒壊してしまった。不幸中の幸い、人々は近くの畑に逃げるなどして、一人のけが人も出なかった。地域の史料に生々しい体験がつづられている。

 震災の8年後、同じ人物の寄進により鳥居が再建され、今に至る。一方、倒壊して砕けた鳥居は境内に転がり、土に埋まるなどしていたが「鳥居を踏みつけるのはよくない」と、数年後にまとめて記念碑にした。年月を経て存在が分かりにくくなったことから、さらに80年ほど経った2013年、再びきれいに整備したという。

関東大震災で倒壊した鳥居。記念碑として整備されている=先月28日、東京都町田市の春日神社
関東大震災で倒壊した鳥居。記念碑として整備されている=先月28日、東京都町田市の春日神社

 宮司の池田文彦さんは「奉納された神様に関わるものを大切にするため、またお祭りで多くの人がいたのに無事故(けが人なし)だったことのご神徳を記念するため、碑として整えている。また、震災の記憶はだんだんと薄らいでしまうので、何百年と続く神社に碑が長く残っていくことは非常に大事だと思う」と語る。

 関東大震災から100年が経ち、その後の戦災復興や都市開発もあり、当時を物語る遺構は少ないとも思われる。だが実は探してみれば、こうして身近に見つかるのかもしれない。

昼どき、強風…火災が拡大

 気象庁や内閣府などの資料によると、関東大震災の震源は神奈川県西部、深さ23キロで、マグニチュード(M)7.9だった。東京府(当時)と埼玉、千葉、神奈川、山梨県で震度6。北海道や中国、四国地方に及ぶ広範囲で揺れを記録した。なお、当時の震度は0~6の7階級だったが、家屋の倒壊状況などから相模湾沿岸や房総半島南端では、現在の震度7相当だったとみられている。炊事の忙しい昼どきに発生し、しかも台風の影響による強風を受け火災が拡大した。死者は10万5000人超、全壊、全焼、流失家屋は29万超に上り、電気、水道、道路、鉄道などに甚大な被害が発生した。

 前日にまとまった雨が降った影響で山地や丘陵で土砂災害が多発した。土石流により、神奈川県小田原市で列車が海に転落した。現在の秦野市・中井町で震生湖ができるなど、地形が大きく変わったことも地震の規模を物語る。房総から伊豆半島東岸にかけて津波が発生し、最高12メートルに達した。

家屋の被害が大きかった神奈川県三崎町、現在の三浦市内(気象庁提供)
家屋の被害が大きかった神奈川県三崎町、現在の三浦市内(気象庁提供)

 今年7月に都内で開かれた日本学術会議と防災学術連携体によるシンポジウムでは、発生後わずか数分のうちにM7級の余震が繰り返して被害が拡大したことなど、震災の状況や要因が詳しく紹介された。なお関東大震災は災害の名前で、それを引き起こした地震は「大正関東地震」だが、本稿では使い分けを避けて後者も関東大震災と表記する。

相模トラフ沿いのプレート境界地震

 地震は仕組みにより大きく分けて、海の「海溝型地震」と陸の「活断層地震」がある。関東大震災は前者で、地球の表面を覆うプレート(岩板)のうち、海側のフィリピン海プレートが、陸側の北米プレートの下に沈み込む境界の相模トラフ(浅い海溝)に沿って発生した「プレート境界地震」だった。

日本列島周辺の4つのプレートと海溝(気象庁提供)
日本列島周辺の4つのプレートと海溝(気象庁提供)

 プレートは厚さ数十~200キロで、地球全体で海と陸に計十数枚ある。海のプレートは年に数センチずつ、ゆっくり広がって陸のプレートへと押し寄せ、下に入り込んでいる。これにより、海と陸のプレートの境界は深海底で細長い溝「海溝」となって続いている。この海溝沿いで起きる地震が海溝型地震だ。海溝型地震には、海のプレートが入り込む圧力でひずみがたまり、限界に達して陸のプレートが跳ね上がる「プレート境界地震」や、海のプレート内がずれて起こる地震がある。

 これに対し、活断層地震は陸のプレート内のひずみが限界に達し、弱い場所(断層)がずれて起こる。陸のひずみは主に、海のプレートが入り込む影響でたまるので、活断層地震も間接的にプレートの動きの産物だ。活断層地震の規模は、海の地震に比べ規模が小さいことが多いが、浅いところで起きるために地上の揺れが大きく、M6~7程度でも被害が大きくなる。

さまざまなタイプの地震。海のプレートが陸のプレートの下に沈み込むことで、プレート境界地震が起きる。陸のプレート内のひずみが限界に達し、活断層地震が起きる(地震調査研究推進本部提供)
さまざまなタイプの地震。海のプレートが陸のプレートの下に沈み込むことで、プレート境界地震が起きる。陸のプレート内のひずみが限界に達し、活断層地震が起きる(地震調査研究推進本部提供)

 例えば1995年の兵庫県南部地震(M7.3、阪神・淡路大震災)は六甲・淡路島断層帯で起きた活断層地震、2011年の東北地方太平洋沖地震(M9.0、東日本大震災)は太平洋プレートと北米プレートの境界の日本海溝で起きた海溝型地震だ。

 地震が起きるとひずみはいったん解放されるが、プレートは動き続けるので地震は繰り返す。海陸の4枚ものプレートの境界に位置する日本列島は、世界有数の地震地帯。周辺では世界の地震の数の10分の1が起きているという。

首都直下、M7級に要警戒

 では関東大震災と同じタイプの地震は、次にいつ起きるのか。地震学者らで構成する政府の地震調査委員会は、地震の規模や発生確率の予測「長期評価」を公表している。それによると、関東大震災と同じ相模トラフ沿いのM8級の地震は1293年の永仁関東地震、1703年の元禄関東地震が知られ、平均発生間隔は180~590年。今年でまだ100年“しか”経っていないため、30年以内の発生確率は「ほぼ0~6%」と低めに見積もられている。

 ただしもちろん、地震はこのM8級だけではない。首都圏の地下は、フィリピン海プレートが北米プレートの下に沈み込み、さらに太平洋プレートにぶつかって盛り上がる形となるなど、極めて複雑な構造を持つ。このため一回り小さいM7程度の地震は関東大震災のようなプレート境界のほか、海のプレート内の地震、活断層の地震のようにさまざまな仕組みが想定されている。よく耳にする「首都直下地震」はこれらの総称だ。同委員会はプレートの沈み込みに伴うM7程度の地震の30年以内の確率を70%程度と推定している。首都圏ではM7程度の地震が100年間に5回程度起こっているとされ、いつ大地震が起こってもおかしくない。

首都圏の地下は3つのプレートが絡んだ複雑な構造をしており、さまざまなタイプの地震が想定されている。関東大震災は(2)のタイプだ(中央防災会議の資料から)
首都圏の地下は3つのプレートが絡んだ複雑な構造をしており、さまざまなタイプの地震が想定されている。関東大震災は(2)のタイプだ(中央防災会議の資料から)

 また、愛知工業大学地域防災研究センターの横田崇教授はシンポジウムで「元禄関東地震に比べると、大正関東地震の津波波源域(震源域と概ね一致するか広くなることが多い)は半分で、東半分は(割れずに)残っている。東半分だけで地震が起きた記録は見つかっていないが、注意が必要だ」と指摘した。

 政府の中央防災会議は2013年、首都直下地震の中でも被害が大きい都心南部直下地震(M7.3)の被害想定をまとめ、全壊、焼失家屋が最大約61万棟、死者同2万3000人、被害額約95兆円などとした。また東京都も昨年5月、震度6強以上の範囲が23区の約6割に及び、都内の建物被害が最大約19万棟、死者は同約6000人に上るなどと想定している。

南関東で起きたM6以上の地震。M8級は1600年以降では1703年の元禄関東地震と1923年の関東大震災が知られ、その間にM7程度が複数回起きている(中央防災会議の資料から)
南関東で起きたM6以上の地震。M8級は1600年以降では1703年の元禄関東地震と1923年の関東大震災が知られ、その間にM7程度が複数回起きている(中央防災会議の資料から)

「今こそ復興事業の理念を」

多くの建物を焼失した東京駅前(気象庁提供)
多くの建物を焼失した東京駅前(気象庁提供)

 関東大震災の震源は神奈川県西部だったが、離れた東京で火災の被害が大きかったことが特筆される。その背景要因について、関東大震災の研究に取り組んでいる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授はシンポジウムで「根本的には明治政府のまちづくりの失敗があった」と強調した。

 武村氏は東京で被害の7割が集中した原因を考察。「隅田川の東から北にかけて工場や家が密集し、多くの人が亡くなった。明治維新後の産業都市化政策が、都市基盤を整備しないまま軟弱地盤の上に人口を集中させたためだ」とした。

 だが9月12日に詔書(しょうしょ)が発布されて進んだ復興事業を機に、東京のまちづくりが好転したという。武村氏は「一番重要だったのは公共性を大事にしたこと。個人や企業が儲けたら復興事業は成り立たず、市民一人一人に利益をもたらさなければならないことが、明確に書いてある」と説明した。地権者から1割ずつの土地提供を受けて道路を整備した土地区画整理、将来の地下鉄建設も見据えた幅員の大きい街路整備などが進められたという。

 「もう一つは、皆が誇りにして守ろうとする気持ちが生まれる、品格を持った街を目指したこと」。具体例として武村氏は、隅田川に架けた美しい橋梁の数々、鉄筋コンクリート造りでモダンなデザインの復興小学校や隣接する公園を挙げた。

 だが、こうした発想はその後は引き継がれず、昭和に入り木造建築が再び密集し、首都高速道路建設を急ぎ景観を損ねたことなどにより「東京の街は品格を失った」とも言う。武村氏は「戦後の復興で欠けたのは『街は市民に平等に利益をもたらすもので、金儲けの道具ではない』こと。関東大震災100年の今こそ、当時の復興事業の理念を思い起こし、東京を地震に強い街に変えなければ」と呼びかけた。

災害列島から「防災列島」へ

地域に残る災害の記録を、大切に次世代へと引き継ぎたい=先月28日、東京都町田市の春日神社
地域に残る災害の記録を、大切に次世代へと引き継ぎたい=先月28日、東京都町田市の春日神社

 日本ではどこでも、大きな地震が起きる恐れがある。地震調査委員会は長期評価を、中央防災会議は被害想定や対策をまとめている。一部の自治体も独自の想定をするなどしている。地震や被害をあらかじめ見積もって備えておくことで影響を極力抑え、復旧を早く進めるなどの効果が期待できる。

 長期評価は30年以内の発生確率について、駿河湾~日向灘沖の南海トラフ地震(M8~9級)を70~80%、千島海溝沿いの根室沖(M7.8~8.5程度)を80%程度などと評価。東日本大震災からまだ12年しか経っていない青森県東方沖~房総沖の日本海溝沿いで、M7程度の地震について複数の区域で80%や90%と高い値となっているのが注目される。

 一方、これらの情報の性質は注意深く受け止める必要がある。地震の発生には不確かさがつきまとうので、評価はあくまで目安と考えたい。また必ずしも全ての地震の痕跡や記録が残っている訳ではなく、評価には限界がある。

 長期評価の発生確率は30年以内の値で議論されることが多いが、くれぐれも30年「後」などと思い込んではいけない。筆者は「30年後なんて自分は生きていない」という高齢者の受け止めを耳にしたことがある。例えば相模トラフのプレートの沈み込みに伴うM7程度の地震の場合、30年以内は70%程度だが、10年以内だと30%程度と聞くと、より切迫した印象を持つかもしれない。

 東日本大震災の直後に筆者が避難所で取材した際、「宮城県沖地震、新潟県中越地震(あるいは3年後の新潟県中越沖地震を言われたか)に続き、これで人生3度目の被災だ」と、実体験を基に被災時の過ごし方を語ってくれた方がいた。無理に自宅に残ろうとせず、躊躇(ちゅうちょ)なく避難所に身を寄せるとのことだった。筆者は恥ずかしながらこの取材まで、自宅がどんな状態になったらどう行動すべきか、ろくに考えたことはなかった。大地震のその時、とっさの安全確保は、職場や家族との連絡は、当座の衣食住は…。経験するまでなかなか自分のこととして捉えないのが、人間の性(さが)かもしれない。

 過去の災害を語り継ぐ遺構が、各地に残っている。また、現代でも地震は予知できないものの、確率などを不完全ながらも科学的に語れるようになった。だからこそ災害の後になって、警鐘が鳴らされていたのに…との後悔は避けたいものだ。日本は災害列島といわれるが、私たちが平時に一歩でも備えを具体的に進めることで、「防災列島」への進化につなげたい。

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