「三筋四筋の道」とはどういう意味?連載中の特別企画「伏見康治−三筋四筋の道」のタイトルについて、筆者の菅沼純一氏に尋ねた方もいたそうだ。現在、掲載中の3回目にそのいわれが出ている。伏見氏自身の著作のタイトルから採った、と。
「この道一筋」といったような“大層”な表現を嫌う伏見氏らしい、と編集者は感じる。「権威」をふりかざすような言動とは無縁に見える氏の生き方は、連載2回目に出てくる以下のくだりにも示されているように思う。
「大阪大学の伏見教授の下で学び、研究した多くの弟子の間では、『伏見先生は面倒見が良くない』と専ら噂されていた。面倒見が良くないとは、就職の世話をせず、結婚式の仲人を引き受けないという意味だった。後年このことを尋ねると『そうですよ。学問以外の付き合いは不要だと思っていましたからね』」
『面倒見がよい』と言われるような行為の底に、しばしば『その代わり、俺を親分と思え』という魂胆が隠されている。そんな人間関係はごめんだ…。そういう考えをされる人ではないか、と。
そもそも就職の世話をするということは、公平に選ばれたとしたら、別の人物がそのポジションに就いた可能性も十分あるわけだから、フェアな行為とはいえない(研究者の世界の人事は実力本位、公平に行われているという前提)。と、考えられたかどうかは分からないが。
「伏見康治−三筋四筋の道」3回目に、次のようなくだりがある。
「『科学者社会』という言葉を、伏見は好んで使う。『科学者社会』の中心に学術会議を位置づけ、あるときは研究環境の整備を政治社会に要請する立場として、あるときは社会との関係で市民社会からチェックを受ける側として、科学の在り方を考えるキーワードの一つとして使っている。伏見は『科学者社会』の成立のためには『科学者社会』が外からチェックを受ける必要があると考え、『科学技術者の協議による自己コントロールにはすこぶる懐疑的である』。」
これなど、「同感!」、「そうはいっても」といった感想を含め、いろいろ思い当たることがある研究者も多いのではないだろうか。
20数年前、参議院議員会館の議員室でうかがった話を思い出す。
「世界を見るとだいぶ前から多くの物理学者がこれから発展するのは生物学だと感じ、研究対象もそちらに移している。若い物理学者たちに勧めたのだが、生物学に転じた人間はいなかったね」