インタビュー

第3回「研究環境を整える道」(伏見康治 氏 / 理論物理学者)

2007.07.09

伏見康治 氏 / 理論物理学者

「三筋四筋の道」

伏見康治 氏
画:伏見 康治
伏見康治 氏
画:伏見 康治

数え年99歳、今なお健在な怪物物理学者、伏見康治の一端を4回にわたって紹介する。
伏見康治は『不思議の国のトムキンス』で戦前から多くの科学ファンを魅了し、原子物理学、原子核物理学に関する多くの優れた読みものを著した。戦争中は厭戦者として大阪大学の研究室を動かず、戦後は荒廃した日本の科学研究環境を確立するために労を惜しまず、やがて原子力利用研究では一大論争を巻き起こす。後年、学者社会の国会・日本学術会議の会長に選ばれ、遂には本当の国会議員も務める。ソ連崩壊時は、科学者社会の先頭にたってロシアの科学者救援活動を牽引し、今なお核兵器の廃絶を願い、北朝鮮の孤立を憂える。年内には、戦前10回、科学雑誌に連載された『波うつ電子』(仮題)が、65年余の年月を越えて、科学読み物として、学生のテキストとして、人々の期待に応えて一冊の本として蘇り、「丸善」より出版される予定。

集第3巻 みすず書房)と、伏見は1930~80年の歩みを振り返り、その前半25年は科学者として価値あることをやったが、後半25年は堕落した、そうなった根本原因は戦争にあると書いている。

戦後の日本の物理学、特に原子核物理学をいかに再建するか、恩師の菊池正士とも大論争になった。菊池が、まず自分がやってみせることが大事、そうすれば若い人はついてくると言えば、伏見は、研究施設は荒廃の極に達し一定の研究条件を整えなければ学問はできないと言った。

両者はそれぞれの主張を通して、菊池は米国コーネル大学へ、伏見は日本で「こつこつと研究環境を整える仕事に専念」した。そして、伏見のその仕事の舞台は1949年に設立された日本学術会議に移され、以後ここを中心に展開されることとなった。その時期、菊池のように海外に留学することは特別なことで、経済的な後ろ盾がない限り不可能なことだった。

伏見は、先の講演録の最後で、湯川秀樹とフェルミを例にとって、科学者の創造活動を育てるためには、影に隠れた馬喰(博労、伯楽とも書く)役がいかに重要かを説いている。

環境条件をいくら整えても、科学者自身がしっかりしなければ何も出てこない。これは明白なことです。しかし同時に、ある程度、環境(例えば馬喰役というもの)をちゃんと整えるべきだと思います。日本学術会議は、天才が埋もれてしまわぬよう、伸び伸びと研究できるような環境を作っていくこと、それが仕事と考えております。どうぞ皆さん日本学術会議を大いに応援してください。

「科学者社会」という言葉を、伏見は好んで使う。「科学者社会」の中心に学術会議を位置づけ、あるときは研究環境の整備を政治社会に要請する立場として、あるときは社会との関係で市民社会からチェックを受ける側として、科学の在り方を考えるキーワードの一つとして使っている。伏見は「科学者社会」の成立のためには「科学者社会」が外からチェックを受ける必要があると考え、「科学技術者の協議による自己コントロールにはすこぶる懐疑的である」。

伏見康治が参議院議員になった1983年に設立した研究団体リンクス リセウムは、伏見自身が米寿(88歳)になったのを機に閉じることになった。リンクス リセウムの最後の記念シンポジウム終了後の宴で、当時の学術会議会長だった伊藤正男は「学者として研究環境を整える学術行政に携わることは誰かがやらなければならないが、学者としては必ずしも評価されない。伏見先生は戦後いち早く、最も困難な時期から、その役回りを長きにわたって引き受けてこられた」と伏見の業績を讃えた。

めったに後悔をもらさない伏見が、再三にわたって悔恨をあらわにするのは、関西研究用原子炉の設置に関係したことである。当時、阪大の理学部長だった伏見は「原子炉設置は、私にとって最高の義務となっていたので、寝食を忘れ東西に奔走」した。ところが、研究用原子炉の設置候補地を決めるたびに、その地区に設置反対運動が起こる。ようやく最後に現在の熊取町に落ち着くまで、伏見は説得活動に明け暮れることになったのである。

「1956年から61年までの5年間、(学問に打ち込むため)学術会議の会員をやめていたにもかかわらず、ほとんど研究らしいことをしていない。50歳前後のいわば働き盛りの5ヵ年を政治的駆け引きの中に過ごしてしまった」(『時代の証言』同文書院1989年)。と伏見は悔やみ、だが「とにかく、できたその原子炉を使って若い研究者たちは学問の世界に没頭できるはずである」(朝日新聞1969年)と次の世代に想いを託している。

こうなった源は「広島、長崎のことに社会的責任を感じたこともある」が、「原子力が基礎から応用への実に見事な展開を示したのに魅せられたことにあった」。人間は、燃焼を化学を知る以前に、蒸気機関を熱力学の完成以前に、飛行機を航空力学以前に、利用していた。しかし「こと原子力に関しては原子核物理学のある発展段階がこなければ、到底思いつくようなものではなかった」にある。

それは、日本の原子力研究の必要性を訴えるため1952年、学術会議で検討された「茅・伏見提案」につながる。これは、いったんは否決されたが、54年の原子力平和利用三原則・民主・自主・公開の基礎となるものだった。

科学評論家の鎮目恭夫は、朝鮮動乱を機に一部に日本も核武装すべきという意見があったことに触れ、「僕は、伏見さんが『俺がやらなきゃ、もっと悪いやつが原子力の研究を始める。たとえ危険があっても自分がやらなければ』と考えただろうと思った」と対談で述べている。また伏見と専門が近い統計力学の久保亮五(任期途中辞任した伏見の後をついだ学術会議会長)は、「伏見さんは、日本における原子力平和利用の推進役であり、それがおかしな方向に曲がらないように懸命に舵取りを努められたのである」(前記「著作集」第6巻解説)と書いている。

(続く)

(科学ジャーナリスト 菅沼 純一)

ページトップへ