インタビュー

第2回「よみがえる『原子物理学十話』」(伏見康治 氏 / 理論物理学者)

2007.07.02

伏見康治 氏 / 理論物理学者

「三筋四筋の道」

伏見康治 氏
(撮影:山本壽)
伏見康治 氏
(撮影:山本壽)

数え年99歳、今なお健在な怪物物理学者、伏見康治の一端を4回にわたって紹介する。
伏見康治は『不思議の国のトムキンス』で戦前から多くの科学ファンを魅了し、原子物理学、原子核物理学に関する多くの優れた読みものを著した。戦争中は厭戦者として大阪大学の研究室を動かず、戦後は荒廃した日本の科学研究環境を確立するために労を惜しまず、やがて原子力利用研究では一大論争を巻き起こす。後年、学者社会の国会・日本学術会議の会長に選ばれ、遂には本当の国会議員も務める。ソ連崩壊時は、科学者社会の先頭にたってロシアの科学者救援活動を牽引し、今なお核兵器の廃絶を願い、北朝鮮の孤立を憂える。年内には、戦前10回、科学雑誌に連載された『波うつ電子』(仮題)が、65年余の年月を越えて、科学読み物として、学生のテキストとして、人々の期待に応えて一冊の本として蘇り、「丸善」より出版される予定。

伏見康治は、あるエッセーで「物理の本などというものは寿命が短くて、私の時代の本が、次の世代の役に立つはずがないではないか」と書いている。

ところが、伏見のこの予想は、伏見自身が書いた本に関しては、当たらなかった。まさか、65年前の連載が1冊の本となって蘇えるとは!第二次世界大争を越え、世代を超えて。

この一冊が出版されることとなったのは、伏見康治の白寿(99歳)の祝いがきっかけだった。

大阪大学の伏見教授の下で学び、研究した多くの弟子の間では、「伏見先生は面倒見が良くない」と専ら噂されていた。面倒見が良くないとは、就職の世話をせず、結婚式の仲人を引き受けないという意味だった。後年このことを尋ねると「そうですよ。学問以外の付き合いは不要だと思っていましたからね」「もっとも、だんだん堕落しました」とのこと。

何事にも例外はあるもので、その一人が『原子炉の理論』を伏見と共訳した大塚益比古だった。大塚は、伏見の参議院議員時代の秘書を務めた菅沼純一にも「僕は例外だった。伏見先生から次の仕事を紹介してもらえるなどとは、ゆめゆめ思わないように」と忠告した。

伏見研究室の一番弟子の内山龍雄亡き後、大塚は東京近辺の大阪大学の卒業生を中心とした「伏見会」の取りまとめ役を務めてきている。

その大塚の耳に「今年、伏見先生は白寿」の知らせが入った。大塚は、急遽、参議院時代以後の伏見の人脈に詳しい菅沼に連絡、さらに伏見とは学術会議と平和運動で密接な関係にあった素粒子論の小沼通二に連絡し、この3人で実務を担う覚悟で「伏見康治先生の白寿を祝う会」を立ち上げた。

はじめは、「3人でやれる範囲でやろう」とのんきに構えていたが、祝う会の案内をだす人々の数はたちまち膨れ上がり、連絡事務は3人でやれる範囲を越えて悪戦苦闘する羽目になった。大塚にとっては「80歳近くなって、今までやったこともない総務の仕事をやることになるとは」と苦笑する日々が続いた。

会の当日、参会者へは2冊の記念品が用意された。

一冊は、幼少の頃の数奇な運命を伏見康治自ら、ここ何年かに亘って書き溜めていた『生い立ちの記』。

もう一冊は『「波うつ電子―原子物理学十話」について』だった。

後者は、伏見の書いたもので、これまで本になっていない『図解科学』の連載を白寿の祝いを機に一冊にまとめられないだろうかという、小沼の提案に関係するものだった。

連載10回分をまとめるとなると相当なボリュームになる。出版の可能性について、いくつかの出版社に打診した。結局、出版社経由は難しく、自費出版も考えたが、これも紙媒体で出すと経費が大きすぎることが分かった。

残った案はDVDだ。小沼は、伏見自身が『図解科学』を一冊も持ってないことを知り、国会図書館や北大図書館などに、伏見の連載部分のコピーを依頼し、一部は伏見の手元にと考えていた。このコピーを(コピーの出来が悪ければ原本から直接)写真撮影しDVDを作成して配ることにした。

ところが、いよいよDVD作成の作業に入る段階になって、小沼が折衝していた「丸善」から出版を検討したいという申し出が舞い込んできたのだった。『波うつ電子(仮題)』として、年内または来年早々には出版されることが決まったのだ。

「丸善」のこの本の予告には次のように書かれている。

専門的な知識を必要としない平易な文章で、日常的な題材を用いながら、現代物理学のエッセンスを、伏見先生独自の視点でまとめて解説されており、いま読んでも新鮮で、改めて得心の行く素晴らしい内容です。

『波うつ電子(仮題)』は次の10の話からなる。「飛び交う分子」「燃える分子」「原子建築」「震えるエーテル」「流れる電子」「波うつ電子」「光のつぶて」「光る原子」「原子模型」「原子アンテナ」。『驢馬電子』が「原子核物理学二十話」なら、『波うつ電子(仮題)』のほうは「原子物理学十話」に相当する。

伏見は、この連載を始めた当時、少なくとも数ヵ年は続くものと考えていた。ところが連載は突然、終わりを告げた。 小沼は、座談会(注)で『図解科学』の発行元、中央公論社の『70年史』(1955年)を引用している。

仁科芳雄を監修者として基礎科学と応用技術に重点をおき、積極的な図解による編集を続け好評を博し たが、太平洋戦争の苛烈化に伴い、基礎科学偏重の非難を情報当局より蒙り、「軍事科学に重点を置け」との強制を受けた。基礎科学の重要性を説く編集者に対 し、情報局の担当係官は「原子物理が戦争の役に立つか」との暴言をもって報いた。(後略)

『図解科学』の編集人・小倉真実は「編集後記」で、しばしば伏見康治の書いたものに触れている。小倉は、「物理部門」の伏見康治と「化学部門」の玉虫文一とを雑誌の「双璧をなす呼び物」と位置付けていた。中でも伏見に対する期待は一段と大きかったようだ。

以下に小倉真実の「編集後記」の中で伏見康治にふれている部分をいくつか紹介する。

連載6回目「波うつ電子」が掲載された号(1942年10月)

筆者多忙のため中絶していた伏見康治氏の原子物理学と湯浅光朝氏のラジオ・ゾンデを本号に掲載した。(中略)今回の伏見博士には微分が少し入るが、一流の名解説により充分理解し得ると思う。

連載7回目「光のつぶて」が掲載された号(1943年2月)では

伏見康治博士の学硯いよいよ冴え、「光のつぶて」は科学解説としては珍しい余韻を湛えた点など、内容とともに近来の傑作と信ずる。

さらに、連載9回目「原子模型」が掲載された号(1944年2月)

伏見康治博士から久しぶりの力篇を得た。本誌読者の要求が基礎科学に多いのは読者の高水準を物語る統計を示しているが、伏見博士の人望が高位を占めるのも氏の学識と表現の卓越せる反映であろう。

小倉の文章からは、今でも、その熱気が伝わってくるようだ。

ともあれ、当時すでに多くのファンから支持された伏見の連載が、時代を超えて蘇ることとなった。 伏見は、この出版を聞いて「長生きすると少しはいいこともあるのかな」と言った。

(注)座談会=『図解科学』の連載をめぐって
 伏見康治 高田誠二 小沼通二 菅沼純一(2007年2月27日)

(続く)

(科学ジャーナリスト 菅沼 純一)

 編集者追記:記事中に出てくる『波うつ電子(仮題)』は、2008年1月、丸善から「光る電子、波うつ電子」(伏見康治著、編集協力 小沼通二)として発行された。

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