オピニオン

博士課程進学には覚悟が

2012.05.21

水素エネルギー国際研究センター 准教授 林 灯 氏
林 灯 氏

 最近、日本人博士課程進学率の低下や、海外留学離れなど、日本の科学界にとっては危機的とも思える状況にあるという指摘を、一度は耳にしたことがあると思います。米国に留学したい、学問を究めたいと思った10代のころの私自身と比べると、時代の差なのだろうかと思ってしまいます。私は学部時代から米国で過ごし、そのまま修士課程を経ることなく博士課程へ進学し、Ph.D.を取得した経歴を持ちます。そんな私が感じる日本と米国の大学院教育の違いについて書きたいと思います。

 私が現在所属する九州大学工学部の学生は、学部卒業後、ほとんど修士課程に進学します。しかしながら、博士課程に進む学生はというとかなり少なくなります。なんだか、修士と博士課程の間に線がくっきり引かれているようです。修士課程を修了した学生の多くは自分の憧れていた業種に思い通りに就職していきます。日本の現代社会のシステムでは博士課程に進学する絶対的な必要性が無いのでしょう。後々、博士号が必要になったとしても、論文博士という博士号が日本には存在するので、そう困ることもないのかもしれません。客観的に見ると、修士終了後、希望の会社に就職するというのは非常に完璧な人生設計です。私自身、もし日本の大学、大学院に進んだのなら、同じ道を歩んだのではないかと思ってしまいます。自分のやりたい職業につくために一生懸命がんばってきて、その夢をかなえることを目前にしている学生を見ていると、博士課程に強く誘いにくいのが現実です。

 一方で、教育者そして科学者として、日本の将来を考えた時に、世界の科学のトップを走ってきた日本がこのままでは負けてしまうという危機感があります。これからの日本の科学を支えてくれるのは、今現在大学、大学院に在籍する学生の皆さんなのです。ですので、やはり、博士課程に進んでもっと科学を楽しんでほしいです。ただ単に指導教員に誘われたから、就職先がみつからなかったからという理由で、博士課程に進んでほしくないと思います。自ら進学したい、研究したいという気持ちを持って博士課程に進んでほしいのです。

 どうすれば、今の日本のシステムを変えて、学生たちが自らどんどん博士課程に進む流れをつくることができるのだろうか? その答えは今のところ私にはみつけられません。ただ私に今できることがあるとすれば、私の経験をお話しして皆さんの参考にしてもらうことだと思います。米国でPh.D.を取得するというのは一体どういうことなのかについて述べたいと思います。米国と言っても広いですから、地域により違いもあるかもしれません。カリフォルニア州にあるカリフォルニア大学デービス校で私が過ごした間に感じたこと、友人や先生から聞いたことなどについてご紹介したいと思います。/p>

 米国では、博士号の必要な職業と必要でない職業とがはっきり分かれています。例えば、エンジニア系では経験が重視されますので、学部卒や修士卒で就職しても問題ないと言えます。一方、化学系などの研究職は、どんなに優秀で実力があったとしても、修士卒では与えられたレシピ通りに仕事をこなす以上のことはさせてもらえません。自分の研究を行えるのは博士以上の役割になります。日本のように、働きながら論文博士を取得する仕組みもありません。ですので、実力のある人はさらに上を目指して、会社を辞めて大学の博士課程に戻ってきます。生活費の保障が一度はなくなるわけですから、非常に大きなチャレンジ、賭けになります。ですから、そのように大学に戻ってきた人からは特に強い意気込みが感じられます。

 米国では、修士過程を経て博士課程に進む必要はありません。学部卒業後、直接Ph.D.コースに進むこともできます。ただし、米国のPh.D.コースは非常に難しいです。私の同級生の場合ですと、60人のPh.D.コースに入学した学生が2年後のQualifying examと呼ばれるテスト終了後には、20人ぐらいに減ってしまいます。その理由は言うまでもなく、このQualifying examが難関だからです、チョークトークと呼びますが、何の手持ち資料も許されず、黒板の前に立ちチョークひとつでこの試験に臨みます。2部制で、1部は自分の研究について、2部は自分の専門分野以外からの研究提案について、5人の審査員の前で説明し、審査員からのあらゆる質問に答えていかなければなりません。このテストで「FAIL」となれば、そこでおしまいです。次の年に受け直すなどの選択肢はありません。修士課程に切り替えるか、学校を辞めるかです。そんな難しいテストですから、受かる見込みの無い人はテストを受けずに辞めて行きます。そのため、実際そのテストにパスした者は、3分の1に減ってしまうわけです。

 私は、なぜそんなに大事なテストをPh.D.コースの4年生終了時まで待たずに2年後に行うのであろうと疑問に思いました。その理由は、2年間でその可能性を判断し、見込みがなければ後2年無駄に過ごすよりも、辞めて新しい道に進んだほうがいいという判断からなのです。なんとも米国らしい考えかもしれません。

 こんな苦労までして取得するPh.D.ですから、その価値は高くその後の人生を大きく変えることになります。とはいっても、その権利を与えられただけで、あくまでもスタートラインに立つことができたというだけです。ここからどのように歩んでいくかは努力次第です。

 私はと言うと、米国で博士課程に在籍して、確かに人生の一番の難関に立ち向かったという気がします。そして、その勝負に勝ったことがどこかで今も自分の支えとなっています。Ph.D.を取得したからといって楽な道を歩めるわけではありません。常に上を目指さなければいけない、安定とは言い難い道を歩んでいる気がします。しかしながら、Ph.D.を取得したからこそ見える新しい道筋に幸せを感じたりもします。

 この話を読んで、「そんな苦労をするなら行きたくないなあ」と思ったかもしれません。しかしながら、米国のように人生を大きく左右するほどの価値があった場合に皆さんはどういう選択をするのでしょうか? 博士課程に進学を考えている人、迷っている人。博士課程に進む道は決して楽ではありません。覚悟が必要です。でも、博士号の向こう側には新しい道が存在します。そんな新しい道に興味のある人、そしてその覚悟のある学生の皆さん、真剣な気持ちで進んでみませんか? 真剣であればあるほど、後悔はしないと思います。そしてそんなチャレンジ精神を持つ学生の皆さんこそが将来の日本の科学を支える一員になるのです。

 そのような無限の可能性を持つ学生の皆さんと、教育者として一緒に日々過ごせることを私は幸せに感じています。やっぱり、私はPh.D.過程に進み、大学教員になって良かったと思っています。

水素エネルギー国際研究センター 准教授 林 灯 氏
林 灯 氏
(はやし あかり)

林 灯(はやし あかり)氏のプロフィール
大阪府出身。私立城星学園高校卒。1997年米Sonoma State Universityで修士号(化学)、2001年米カリフォルニア大学デービス校でPh.D.(化学)取得。02年株式会社豊田中央研究所客員研究員、05年物質・材料研究機構ポスドク研究員、06年産業技術総合研究所固体高分子形燃料電池先端基盤研究センター研究員、10年名古屋工業大学若手研究イノベータ養成センターテニュアトラック助教、11年現職(九州大学 カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所 准教授兼務)。

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