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関東大震災から100年 地震火災リスクはなくなっていないー廣井悠・東京大学先端科学技術研究センター教授

2023.08.31

内城喜貴 / 科学ジャーナリスト

日本記者クラブ記者会見「関東大震災100年(首都防災)(2023年7月12日)」からー

講演する廣井悠・東京大学先端科学技術研究センター教授
講演する廣井悠・東京大学先端科学技術研究センター教授

 今日は関東大震災から100年を経て現代都市の地震火災の問題を改めて考えるという内容でお話しします。
 関東大震災は1923年(大正12年)の9月1日に発生し、建物や火災の被害のほか、津波、地盤災害などさまざまな被害が発生した大地震でした(死者約10万5000人)。特に、当時の東京市、横浜市などの人口密集地域では火災による被害が際立っていました。

 例えば東京市では被害を受けた建物の98%が焼失し、死者の95%が火災によるもので、犠牲者の割合は東京市が33人に1人、横浜市は17人に1人でした。また、東京市の死者の死因の分布を見ると、圧死は市内に広く分布していますが、焼死や溺死は神田、浅草、隅田川の東側などに集中しています。端的に言うと、揺れが大きいところで出火が多く、焼死も多いといった傾向でした。

出火、延焼 、消防、避難の4変数で現代都市を考える

 関東大震災と比べて現代都市がどのくらい安全になっているか、危険になっているかを、地震火災リスクの高さを説明すると考えられる出火、延焼 、消防、そして避難という4つの変数で考えます。

 関東大震災の出火については、かまどや薬品(の落下)、七輪、火鉢などが目立ちます。今、かまどや七輪を使っている家はほとんどなく、現代都市の火気使用環境は大きく変化しているので100年前と単純に比較できません。現在は電気関連の火災による出火原因が多いとされ、例えば阪神・淡路大震災(1995年)の出火原因も電気関連が4分の1ぐらいで多く、「不明」の65%の中には通電火災によるものも含まれると考えられています。

 1万世帯あたりの出火件数を「出火率」と定義して、過去の地震の出火率を見ますと関東大震災の東京市は2.77件。阪神・淡路大震災の神戸市の震度7地域は3.0件、新潟県中越地震(2004年)の震度6強の地域は1.2件です。一方、東日本大震災(2011年)の震度6強以上地域は0.44件(津波火災は除く)。熊本地震(2016年)0.24件というように出火率は年々減っています。

 もちろん出火率は発生時刻や季節に大きく左右されますので、断定はできませんが、結論として出火率は減っていると言えるかもしれません。一方で、出火件数そのものは、増えている可能性もあります。関東大震災の出火件数は東京市では134件だと言われていますが夏の昼間の発生でした。阪神・淡路大震災の出火件数は285件で冬の朝という環境条件。東日本大震災の出火件数は範囲が広かったこともあり、398件と言われています。

 一方で、首都直下地震の出火件数は条件の悪いケースでは数百クラスになると想定されています。なぜ出火率が減っているのに出火件数は増えているのか。それは「都市の拡大」が一因と考えられます。100年前に比べて都市は飛躍的に拡大しています。つまり、世帯が増えて震災に対する「曝露量」が増え、出火件数そのものが増えているわけです。首都直下地震や南海トラフ巨大地震では、関東大震災時の出火件数より多くなる可能性があります。つまり、火気使用環境の変化や転倒防止対策などの普及によって、出火率自体は減っても出火件数自体はむしろ増えるかもしれない。出火という変数で考えると関東大震災当時よりもむしろ状況は悪くなっていると考えた方がよいかもしれません。

出典:震災予防調査会報告第100号『関東大地震調査報文』火災篇(廣井悠教授提供)
出典:震災予防調査会報告第100号『関東大地震調査報文』火災篇(廣井悠教授提供)

不燃化、難燃化進むも都市が燃えなくなったわけではない

 2つ目の変数は延焼です。
 関東大震災で東京市では134件の火災が発生していますが、そのうち約50件が初期消火できています。そして、残りの出火点から発生した火災により、1日足らずで東京市の東部エリアの多くが燃えてしまいました。このなかで、避難途上や避難した空間でたくさんの人が亡くなっています。なぜこのような大きな被害が出たかというと、都市構造の問題と環境条件そして避難の失敗という3つの原因があると考えています。

 都市構造の問題としては、当時の市街地のほとんどが木造で密集していて、道路も狭く、橋なども木造でした。この構造が早い延焼をもたらし、避難の失敗にも結びついたと考えられます。また、関東大震災は昼時の地震だったため、出火が多く、強風下という気象条件が大きな災害をもたらしたと考えられます。そして避難場所の安全性が不十分で、避難者の家財(に燃え移った)避難障害などの原因も考えられています。

 このうち、はじめの原因である都市構造の問題については関東大震災以降、太平洋戦争の空襲被害なども教訓として、都市の不燃化、難燃化をわが国の都市は進めてきました。具体的には帝都復興計画、都市防空計画、都市不燃化運動などをはじめ、法律も耐火建築促進法、防災建築街区造成法、都市再開発法と展開していきました。その結果、避難場所や避難路が整備され、阪神・淡路大震災の被害を経て、木造家屋が密集する「木密」の改善と地域防災も進みました。

 ただし、都市の不燃化、難燃化が進んだと言っても都市が燃えなくなったということではありません。2016年12月末の糸魚川市大規模火災では約4ヘクタールほどの広い面積が燃えてしまいました。新幹線の糸魚川駅の北側の中華料理屋から出火し、火は非常に強い南風に乗って、海側に燃え広がりました。もしこの南風が西風や東風であったり、風向が変化したりしていたら、延焼面積はより拡大していたかもしれません。

 この大規模火災が我々に突きつけた課題は、日本の市街地はまだまだ燃えるということです。糸魚川市よりも建物密度が高い木造密集市街地は全国にたくさんあります。そして、糸魚川の火災は1点(1カ所)からの火災でしたが、地震に伴う火災は同時多発火災であることが知られています。さらに、地震で大きな揺れにさらされると瓦がずれたり、窓ガラスなどが壊れるなどして建物はより燃えやすくなると考えられます。こうした影響がない中でもこれだけ燃えたというのが、糸魚川の火災が我々に教えてくれた教訓です。

(廣井悠教授提供、Google Earthの市街地写真を下絵に使用)
(廣井悠教授提供、Google Earthの市街地写真を下絵に使用)

まだ残る木造密集市街地 中高層建物の火災リスクも懸念

 糸魚川市大規模火災では確認できただけでも13件くらいの飛び火が発生しています。関東大震災の時も飛び火による火災は非常に多く報告されていて45件から240件の飛び火火災が発生したのではないかと言われています。飛び火は、火元から噴き上げられた火炎や熱気流によって、火の粉や燃えている木材の切れ端などが風に乗って舞い上がり、落下して、遠方に延焼を広げてしまう現象です。飛び火火災は延焼を遮断できる道路なども越えてしまうという点で、市街地の延焼を考える上で非常に重要なポイントです。

 また、震災時のビル火災という現象も考えられます。地震火災は大きな地震により木造密集市街地の建物が倒れ、火気器具なども転倒し、市街地内をどんどん延焼していくイメージを持っている人が多いと思いますが、実際の地震火災は空中でも起きています。つまり中高層の建物の中でも地震火災は起きていて、東日本大震災ではさまざまなタイプの火災が起きているのですが、そのなかで揺れに起因して発生する火災のうち約4割が4階以上の建物内で発生しています。他方で、大きな地震が起きると防火設備や消火設備、例えば防火戸やスプリンクラーといった設備が機能しないことが起こります。つまり、中高層の建物が地震の揺れで被害を受け、防火設備や消火設備が機能不全を起こし、そこに下層階で出火すると建物内に多くの人が留まる中でビル火災になる。結果として多くの人が亡くなるという事態も懸念されます。

 東日本大震災について仙台市消防局が49施設を対象とした被害調査では、市内の中高層建築物で約半分のスプリンクラーが使えなくなっていました。つまり関東大震災の時には顕在化しなかった(分野での)「延焼」現象があるかもしれないのです。地震時は防火シャッターが揺れで損傷したり、防火戸が壊れてしまったり、従来の火災安全設備の性能が担保できないビルがたくさん出てくるかもしれません。関東大震災の時と比べて、不燃化率はそれなりに高まり、鉄骨造、あるいは RC造の建物が増え、火災は起きにくくなったように思われますが、そもそも日本にはまだ多くの木造密集市街地が残されていますし、中高層建物の火災リスクという新たな被害像も懸念されます。

(仙台市消防局資料より引用、廣井悠教授提供)
(仙台市消防局資料より引用、廣井悠教授提供)

地震火災は同時多発火災 初期消火力に課題

 3つ目の変数は消防です。
 消防については、関東大震災当時に比べて飛躍的に装備は向上しています。ただし地震火災は同時多発火災なので従来の消防能力の限界に達することもあります。関東大震災の大きな被害と戦時中の都市の空襲の被害を受けて我が国の市街地は消防力を充実させました。その結果、大火の発生頻度は1970年前後に激減しています。

 1万坪(3万3000㎡)以上の火災を大火と呼びますが、地震時等を除いて最後の都市大火があったのは1976年の酒田大火で、それ以降約50年発生していません。このように大火が激減した理由は、多くの人が都市の不燃化だと思っているかもしれませんが、私は消防力の充実によるところも大きいのではないかと考えています。大火が激減した1970年前後は消防の常備化率を急激に高めた時期です。つまり、消防力を充実させて、どこかで火災が起きてもすぐに消防車を何台も派遣して火を消すという社会システムを確立した。これが日本で平常時の大火がほぼなくなった、大きな原因ではないかと思います。

 では火災が起きても四方八方から消防車が来て、寄ってたかって火を消すシステムが機能しなくなるのはどういう時か、というと同時多発火災、つまり地震の時です。例えば、阪神・淡路大震災時の神戸市長田区では13件の火災が発生していますが同区消防署管内で動けるポンプ車はわずか5台で、13件の火災を5台のポンプ車では確実に消火することはできません。

 東日本大震災の時、東京はひどい交通渋滞が発生しましたが、首都直下地震の時はもっとひどい交通渋滞も予想されます。帰宅困難者による消防活動の阻害は関東大震災の時は報告されていませんが、首都直下地震の時には考えられます。水道管などの被害も考えると、十分に消防力が機能しない、消防車が来てくれない状況も考えられます。常備消防が機能しないのであれば、我々個人で、あるいは地域で初期消火をすれば、とよく言われるのですが、現代の市街地ではこれも難しいかもしれません。関東大震災時は東京市全体で134件の出火が発生しても42%が初期消火できていますがその約半分が、青年団・在郷軍人会などを含めた地域による消火でした。一方、100年経った現代都市ではそうした活動が円滑にできるとは限りません。

 揺れが大きかった熊本地震でも、あまり初期消火はできていません。初期消火をする力は地域コミュニティーの喪失や少子高齢化などの現代における時代の潮流を踏まえると、100年前よりも向上したとは必ずしも言えません。現在、常備消防の能力は向上してもその能力も地震時は限定的であり、初期消火の力、地域の中の消火力は高まっているとは言えない、という仮説が考えられます。

重要な避難の在り方 地域での役割分担必要

 最後の変数は避難です。
 関東大震災当時は安全な避難場所の指定や計画はなく、計画的な避難行動も行われていませんでした。当時の手記などを見ると人々は避難場所として広い空地をイメージできても火災の全体像は把握できていなかったようです。逃げてくる人を見て追いかけたり、火災を見つめる人も多かったことなどが明らかになっています。死者の多くは広い場所で出ています。関東大震災で亡くなった人の焼死の原因として、建物に閉じ込められ、火に囲まれて逃げられなくなった事例、避難途中に橋が落ちて逃げられなくなった事例、そして安全な避難場所と思って行った先で亡くなった事例の3パターンが報告されています。

 関東大震災の教訓から我が国は避難に関する性能のハード整備を進めました。橋が燃えて避難できなかった教訓を受けて燃えない橋を造り、安全な避難場所、オープンスペースを充実させました。避難路も不燃化しました。このようにハード整備をある程度高めたわけですが、一方でソフト面の能力については、必ずしも高まったとは言えません。

 私が調査した結果によれば、2016年の糸魚川市大規模火災において、火災の覚知は防災無線の個別受信機等により迅速に行われています。一方で、当日昼には避難勧告が出されましたが、避難勧告や避難の情報を聞いても3割ぐらいの人しか避難していないことがわかりました。ではほかの人は何をしていたのかというと、延焼防止や避難の助け合いも低調で、火災の様子を見ているという人が非常に多かった。

 市街地火災からの避難は諦めが早すぎてもいけないし、諦めが悪すぎてもよくないという難しさがあります。諦めが悪い、つまり避難が遅いと、逃げ遅れて火災と火災に挟まれるなどして、死者が発生してしまいます。他方で、糸魚川の事例は平常時の1点からの火災でしたが、地震時などに同時多発火災が発生すると多くの人が家屋に閉じ込められていたり、要援護者が逃げられなかったりします。地震時の火災は直後に全部発生するのではなく、断続的に発生する傾向にあります。なので、小さいバケツぐらいで十分消火できる火災があるかもしれず、そういう初期消火をしてほしい場合もあります。飛び火警戒も重要な延焼防止活動です。

 諦めが早すぎてみんながすぐ逃げてしまうと、火災の被害がより拡大し、助けを必要としている人も助けられない。適切なタイミングまできちんと火災対応し、救助対応もし、そして適切なタイミングで逃げるという賢い対応が必要になります。これが、早めの避難が最善といわれる、津波や水害からの避難と大きく異なる点といえるかもしれません。火災をいつ誰がどのように知らせるのか、だれがどういったタイミングで消すのか、助けるのか、そして逃げるのか。本来はこのあたりを地域内で考えたり役割分担したりする必要があるのですが、十分できていない地域も多いのではという問題意識を持っています。このことなども考えると、残念ながら、避難に関するソフト性能は100年前に比べてだいぶ衰えているのではないかと考えています。

 さらに、大都市の大きな課題として避難時の群集事故があります。関東大震災当時、上野公園に避難した人たちの写真を見ると、わずか83ヘクタールに50万人が避難しています。当時の東京市の人口はたかだか200万~250万人程度ですが群集事故の発生が報告されています。この群集事故は、東京市のみならず横浜市でも発生しています。近年でも、明石花火大会の歩道橋や、韓国のイテウォン等で群集事故が発生して多くの人命が失われています。関東大震災で発生している以上、このような事故が首都直下地震、あるいは南海トラフ巨大地震の時に起きる可能性も否定できないと思います。

(廣井悠教授提供)
(廣井悠教授提供)

「文明が進むと災害の激烈さは増す」を教訓に

 地震火災は発災後も被害の範囲は拡大し、災害の様相が刻々と変化します。被害を局限化できるかどうかは発災後の消火活動の成否により数時間で決まると言ってもよいかもしれません。つまり初期の段階で消火・延焼防止が迅速にできるかどうかで、被害はずいぶん変わってきます。現状では公助による対応も限界があり、初期消火や延焼防止は自助・共助の果たす役割に大きく期待せざるを得ません。大地震の時の消火活動は難しいと考えられますが、限られた時間で消火だけではなくて救助と避難のトレードオフを最適化する必要があります。そして、出火、延焼、消防、避難の4つの変数に関して日ごろから防火対応や危険物管理、訓練、啓発、避難を考えておくことも極めて重要になります。地震火災を知らせる、消す、助ける、逃げる、について地域の中であるべき役割分担とタイミングを考えておくだけでも、被害はずいぶん違うのではないかと考えます。

 関東大震災の火災調査をした寺田寅彦は「1つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその激烈の度を増すという事実である」という言葉を残しています。この言葉は、文明が進んだ現代都市において、関東大震災における一番の教訓ではないかと思います。地震火災に関しては、都市の暴露量の激増、コミュニティーの喪失、人口減少、財政逼迫(ひっぱく)に伴う公助の限界、少子高齢化による自助・共助の初期消火・避難・助け合い能力の低下、建物の大規模化、都市火災経験の希薄化など多くの課題に現代都市は直面しています。関東大震災を調査した寺田寅彦らの研究者たちは、100年経ってもいまだに高い地震火災リスクを有し、これらの課題に直面しているわが国の現代都市を見たら、果たしてどういう所感を抱くのでしょうか。100年経っても地震火災リスクは我が国の市街地の大きな問題の一つです。関東大震災から100年の節目に、私は今日、そのことを一番に申し上げたいです。

廣井教授の講演を聞く記者や日本記者クラブ会員(日本記者クラブ提供)
廣井教授の講演を聞く記者や日本記者クラブ会員(日本記者クラブ提供)

廣井 悠(ひろい ゆう)

1978年10月東京都文京区本郷生まれ。慶應義塾大学理工学部卒業、慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程修了を経て、東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻・博士課程を2年次に中退し、同特任助教に着任。2012年4月名古屋大学減災連携研究センター准教授、16年4月より東京大学大学院工学系研究科都市工学専攻准教授を経て、21年8月から同教授、23年4月から東京大学先端科学技術研究センター教授。専門は都市防災、都市計画。内閣府「首都直下地震帰宅困難者等対策検討委員会」座長など、行政府の防災関係の各種委員会や検討会の代表やメンバーとして防災対策の理論・実践面で関わる。

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