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人類の進歩を把握する試み、国際博覧会――展示から対話へ《歴史研究者 佐野真由子さんインタビュー》【大阪・関西万博連携企画】

2021.05.19

歴史家として万博(国際博覧会)を研究する・佐野真由子さん。

 国際博覧会(以下、万博)が、もうすぐ日本にやってくる。「いのち輝く未来社会のデザイン」というテーマのもと2025年に開催される、大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会)だ。「万博」という言葉は誰でも知っているが、「万博って何?」という問いに自信を持って答えられる人は少ないだろう。“科学技術の世界的展示会” “未来社会を見せてくれる巨大イベント”、そんな漠然としたイメージは、もともと万博が目指してきたものとはやや違うようだ。歴史家として万博を研究し、人類社会の歩みを捉えようとする、京都大学大学院教授の佐野真由子さんに話を聞いた。

「世界を知りたい」から始まった万博

 万博はどのように始まったのか。世界最初の万博は1851年のロンドン万博とされる。万博の源流は3つの大きな動き―フランスを中心に行われてきた商品見本市、市民階級を展示によって教育しようとするイギリスでの活動、王室コレクションを公共財産として公開する動き―が絡み合ったものであると佐野さんは考えている。しかし、最初の万博は必ずしも確固とした理念をもって始まったわけではないという。

 「最初の万博は、『かつてなかったような大きな展示会をやりたい』『どうせなら海外からも出展を求めよう』という意欲のもとに、とりあえずやってみたものだともいえます」

 こうして「とりあえず」始まった万博は、その後、ニューヨーク、パリでも開かれ、1862年に再びロンドンで開催される。

 「この第2回ロンドン万博に着手するにあたり、今後も万博を続けていこうという考えが生まれました。地球全体を覆うほどたくさんの国々を招こう、と明確に意識されたのもこの時からで、初めて『インターナショナル』という言葉もつけられました。ここから、本当の意味で万博の歴史が始まったと私は考えています」

第2回ロンドン万博(1862年)。

交通技術の発達が生んだ巨大なイベント

 万博が誕生した19世紀は、蒸気船が実用化され、交通技術が大きく発展した時代。遠くへ行くことのできる技術の誕生が、万博を発展させる原動力となった、と佐野さんはいう。

 「行こうと思えば地球の反対側へも行けるようになったからこそ、遠くから持ってきたものを、ひとつの場所に展示するというアイデアが生まれたわけです。一方、展示することで『見たい』『知りたい』『行ってみたい』という思いもさらに強くなる。交通技術の発展と、見たことがないものを集めて展示したいという欲求が、相乗効果で高まった時代。万博はその産物だと思います」

 佐野さんは、知識や情報の伝達にかかわるという観点から、インターネットなどの通信技術も、交通技術の延長線上にあるととらえる。そして、それら交通通信技術の発達だけでなく、その「未発達」の側面にも着目する。当時は国際電信の黎明期。しかし広範な実用化には届いていなかった。

 「交通通信技術のある程度の発達とある程度の未発達。その間(あわい)に生まれたのが万博だと思うのです。だれもが遠くへ行けるわけではないからこそ、特別性がある。その微妙なバランスの上に、地球のミニチュアを作ってしまうかのような、巨大なイベントが生まれたと考えます」

「人類の進歩」を確認し合う場

 万博というと、それぞれの参加国が「自慢の品」を世界に紹介する場というイメージがないだろうか。佐野さんは、万博を始めた人たちの根底にはもっと純粋に、世界のことを知りたい、という強い思いがあったという。また、万博は「未来」という言葉と結びつけられることも多く「人類の未来を見せてくれるイベントである」と思う人も多いのではないか。しかし、この言葉も、本来の万博が目指していたものではない、と佐野さんはいう。

 「以前、BIE(博覧会国際事務局)の資料室で、所蔵資料の中に『未来』という言葉がどれくらい使われているかを検索したことがあります。そうすると、古い時代はほとんど見つからず、多く検索にかかるようになるのは1990年代からと比較的最近でした。つまり、万博はもともと未来を描くことを目的としたものではなかったんです」

 その一方で、万博はその黎明期から「人類社会の進歩」という概念と強く結びついていた。佐野さんが注目するのは、第2回ロンドン万博の主催者が、以降10年ごとに万博を続けていこうと話し合った時、「各回の万博はその直近の過去10年の人類の進歩を確認するためのイベントである」ことを強く意識していたという事実だ。

 「『人類は今、ここまで来ている』ということ、それは技術的なことかもしれないし、ものの考え方かもしれませんが、それらをみんなで見せあって、確認して、学びあって、次に万博をやる時にはもっと先に行けるよね、と話し合う。もともと万博はそういう場だったのだと思います」

佐野さんの編著書。「万博は世界を把握する方法」と佐野さん。

「フラットな世界」を提示した1970年大阪万博

 日本の高度経済成長時代の輝かしいシンボルとして語られることが多い、1970年の大阪万博。掲げたテーマは「人類の進歩と調和」。その開催が決定し、準備が進められた1960年代は、植民地がどんどん独立し、世界の形が大きく変わっていった時期。世界の大きな変化の下で、1970年の大阪万博は、万博の歴史上、もっとも多い新興独立諸国を迎え入れている。

 「1970年の大阪万博は、非西洋の国で行われた初めての大型万博ですが、自分たちが非西洋国家なので、新興国を迎え入れるということを必ずしも強く意識していなかったと思います。しかし、それは実はすごいことだったのです。その当時、それまで考えられなかったようなフラットな世界を実現したのはとても価値があることで、もっと見直されていいと思います」

 大阪万博がもたらした、もうひとつの重要な成果として佐野さんが強調するのは、人材の育成だ。70年万博は、建築では黒川紀章、ファッションではコシノジュンコなど、当時まだ若手で、その後さまざまな分野を牽引することになる「スター」を生み出した。

 「万博は世界最大の公式行事です。数年にわたる準備期間、そして開幕から6ヵ月続く国際的な催しの持つ動員力は、他と比べ物になりません。ここから次の時代のトップスターが生まれたことは象徴的ですが、彼らだけではなく、同じことが社会のあらゆる側面についても言えるはずです」

 建築界やアート界の著名人に限らず、社会の幅広い分野で人材を育成したことが重要なのだ、というのが佐野さんの視点だ。

 「たとえば、パビリオンを建設したり、新しい自動販売機を設置したり、あるいは、膨大な人数を6ヵ月間安全に動かすために調整や交渉をしたりといった、数多くのチャレンジが凝縮されて万博が成り立つわけです。そこで育成された能力は、その後、社会のさまざまな場所で発揮されたはず。その点で、日本にとって未曾有の規模での人材育成の価値が、70年万博にはあったと思います」

1970年大阪万博。それまでの万博の歴史の中でもっとも多い新興独立諸国を迎え入れ、当時は考えられなかった「フラットな世界」を提示した(乃村工藝社グループ提供)。

展示技術は物から写真、映像、さらにその先へ

 万博が刻んできた「人類の進歩」の中には、もちろん科学技術も含まれる。科学技術の進歩が展示の対象になった、というだけではなく、科学技術は、万博での展示方法にも大きな影響を与えてきた。たとえば、第2回ロンドン万博では、写真技術(フォトグラフィー)が展示の新しい分野となっている。

 「当初は、写真技術そのもの、撮影する機械を展示しました。その後、さまざまな分野で実物を展示する代わりに写真を使い、情報を伝えるようになるのは、主に1930年代からであったと考えられます。すると、それまで実物を持ってくることはできなかった各国の風景なども、写真で知らせることができる。そのようにして展示の中身も変わっていきました」

 その後、展示の方法は、物から写真、そして映像へと発展した。映像は見る人の時間を拘束するため、パビリオンの作り方や動線の取り方も根本から変わり、パビリオンを訪ねる意味も変わっていった。1970年大阪万博の頃から始まった「映像の時代」が今も続く中、佐野さんは、そろそろその先に進んでもいいのではないか、と期待する。

 「現在ではデジタル技術が多用されるようになったとは言え、映像で見せるという展示のあり方そのものはあまり変わっていません。それをどう乗り越えられるのかは、次の万博への興味のひとつです」

2025年万博は「人」に戻る

 「遠くへ行ける技術は生まれたが全員が行けるわけではない」という状況から生まれた万博は、「多くの人が行けるようになった」今、どう変わっていくのか。「これは突拍子もない考えかもしれませんが」としながら佐野さんは語る。

 「展示が実物、写真、映像と変わり、その次は何かと考えた時、私は、ただ人がいてほしい、と思うのです。2025年の万博は『いのち輝く未来社会のデザイン』がテーマですが、そこに集まった、さまざまな文化をもつ生身の人間が、命について今どんなことが問題なのかを徹底的に議論する場になってほしい。各国のパビリオンを訪ねていくとその国の人が迎えてくれて、何を考えているのかをじかに伝え合い、熟議する――それでもう十分だし、それこそが新しいと思います」

 「世界を知りたい」という好奇心から始まった万博は、170年間にわたって、展示内容や方法を変えながら、人類の営みを映し続けてきた。

 「万博の開催は、そこに世界を持ってくるということ。その期間、世界のホストになるということです。それは万博が始まった時から今まで変わっていません。その意味を忘れずに、ただ技術を躍らせるのではなく、生身の人間による、2025年にしかできないものにしたいですね」

2025 大阪・関西万博(会場イメージ)。「未来社会の実験場」というコンセプトのもと、テーマである「いのち輝く未来社会のデザイン」の実現を目指す。2025年4月から6ヶ月間、大阪夢洲(ゆめしま)で開催(2025年日本国際博覧会協会提供)。
■プロフィール 佐野 真由子(さの・まゆこ)

佐野 真由子(さの・まゆこ)
京都大学大学院教育学研究科教授。東京大学教養学部教養学科卒業。ケンブリッジ大学MPhil(国際関係論)。東京大学博士(学術)。国際交流基金、UNESCO本部勤務ののち、静岡文化芸術大学、国際日本文化研究センター等を経て、2018年より現職。
専門分野は、外交史・文化交流史、文化政策。主要著作に、『万国博覧会と人間の歴史』(編著、思文閣出版、2015)、『幕末外交儀礼の研究―欧米外交官たちの将軍拝謁』(思文閣出版、2016)、『万博学―万国博覧会という、世界を把握する方法』(編著、思文閣出版、2020)など。

【コラム】人類の足跡を刻んできた万博〜その足跡と交通通信・展示技術の発展

 「本来の万博は未来を予測するものでなく、その時どきの社会を反映し、人類の足跡を刻むもの」、すなわち、万博とは「世界を把握する方法」であると、佐野さんはいう。

 日本と万博との関わりは、鎖国が終わり、諸外国との本格的な交流が始まった19世紀後半に始まる。1862年の第2回ロンドン万博に日本の使節団が出席、1873年のウィーン万博には明治政府が公式参加した。第一次世界大戦後の1928年、パリで開かれた国際会議で万博開催のルールが議論され、同年11月、「国際博覧会に関する条約」(「国際博覧会条約」)が採択された。日本を含む31カ国がこの条約に調印した。
 1940年に「日本万国博覧会」を開催することが決まったが、日中戦争の長期化に伴い「延期」が閣議決定された(「幻の日本万博」)。国内初の万博は、1970年、「人類の進歩と調和」をテーマに開催された「日本万国博覧会」(大阪万博)。過去最高の6400万人以上の入場者を記録した。大阪万博では、無期限延期となっていた「日本万国博覧会」の入場券を使用することができた。

 ここでは、万博の発展に寄与した代表的な交通通信技術、展示に関わる写真・映像の技術もあわせて紹介した。

 参考:外務省外交史料館「万博条約と昭和の万博計画」

「万博の足跡と交通通信・展示技術の発展(編集部作成)」

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