レビュー

編集だよりー 2013年3月14日編集だより

2013.03.14

小岩井忠道

 11日の14時46分、諏訪湖を見下ろす甲州街道脇の駐車場で、拡声器から流れてくる呼びかけに応じ、黙とうをした。東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震がちょうど2年前に発生した時刻である。

 地震発生の1年前、3月13日に日本橋を出発してから丸3年。通信社時代の同僚諸氏やその家族の皆さんと週末を利用し、甲州街道をてくてく歩いてきた。中山道とぶつかる甲州街道の終点、長野県下諏訪町にこの日たどり着く。最後の行程は2泊し、蔦木宿から金沢宿を通り越し、下諏訪宿まで30数キロというコースだ。2日目の午後、大雨に遭い、ずぶぬれになる危機にひんした。幸い同行の3人から雨を通さない上着類を貸してもらい事なきを得る。防水・防寒ウェアを持っていないわけではない。気温が高くなる。何日か前の天気予報を疑わず軽装で参加してしまった。こんな危機管理意識に欠ける人間は編集者のほか一人しかいなかった。

 しかし、この1、2時間を除くと3日間ともすこぶるよい天気に恵まれる。雪をかぶった八ヶ岳など山々を眺めながらの歩行は、実に快適だった。

 終点についてからすぐそばの諏訪大社下社秋宮で表彰式を行う。完歩賞が4人いたが、このうちの1人、73歳になる先輩は、東海道、中山道コースも完歩だった、というから驚く。編集者は参加していない東海道を歩き始めたのが11年前というから、素晴らしい。既に4月から始まることが決まっている日光街道歩きでも、おそらくこの先輩は完歩を目指すだろう。体調不良の時は、はってでも。

 このほか準完歩賞というのが数人いた。都合で一緒に歩けなかったコースを後日一人で歩いたというから、こちらも偉い。

 道中、神社や寺の多さにも感心するが、道端のあちこちに石碑、石像の類が多いのに気づく。男女と思われる二体が寄り添ったものは、これまであまり見かけた記憶がない。ただ丸いだけの石を何個も集めたのもある。昔、読んだ覚えがかすかに残っている中沢新一氏の著書があったのを思い出した。帰京後、図書館で探し「精霊の王」(講談社、2003年)だったと知る。

 「道祖神も、もとはといえばシャグジと同じ境界神の一種」という記述を見つける。シャグジというのは、ミシャグチなどと言われることもあり、漢字で書けば、社宮司、石護神、石神、石神井、尺神、赤口神、杓子、三口神、佐久神、左口神、作神、守公神、守宮神などさまざまな字があてられるとのこと。

 「『サ』行音と『カ』行音の『ク』または『ガ』行音の組み合わせでできているという共通点がある。『サ』音は岬、坂、境、崎などのように地形やものごとの先端部や境界部をあらわす古い言葉に頻出する。この『サ』音が『カ』行音と結びつくと、ものごとを塞ぎ、遮る『ソコ』などのことばにあらわされるような『境界性』を表現することばとなる。ようするにシャグジは空間やものごとの境界にかかわる霊威をあらわすことばであり、神なのではないか」

 これは中沢氏以前に柳田国男が指摘していたということだが、こんな記述に遭って昔、感じた興奮を徐々に思い出す。先住の縄文人に後からやってきた弥生人がとって代わり、日本に国家らしきものをつくりあげた。そんな単線的な歴史観で見過ごしていた何やら不思議な文化があったのでは…。思いは膨らむというわけだ。次のような記述も大いに気になる。

 「国家というものがこの列島に出現し、人々の思考がそれによって大きな変化をとげてしまうと、かつては列島上にみちあふれていたシャグジの精霊=神たちの、巨大な規模での没落が始まった」

 諏訪大社と言えば、御柱祭(おんばしらさい)が有名だ。これも相当変わった祭りだと思うが、諏訪大社上社の蛙狩神事というのも面白い。諏訪大社の本来の祭神が、ミシャグチ神で、これが蛇神だから好物の蛙(カエル)をいけにえとして捧げるというのである。

 「精霊の王」の中にも、「ミシャグチは諏訪神社信仰圏では、堂々と人々の暮らしの中心に位置していた神なのである」という記述がある。道祖神のように、村はずれにまつられるわけではない、というわけだ。ちなみに道祖神とは「境界の隙間からわきあがってくる災いや危険を、こちらの世界に入れまいとして境界を防ぐ神」という。

 「だから、どうなんだ」といわれると、次の言葉に詰まるのが、薄っぺらの知識しかない人間の限界だが、ここは無理やり納得することにしよう。

 時には、土着信仰の摩訶(まか)不思議さに思いを巡らせるのも悪くないのでは。グローバル化という掛け声におたおたしてばかりでなく、と。

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