レビュー

編集だよりー 2012年10月16日編集だより

2012.10.16

小岩井忠道

 2年半前に日本橋を出発し、冬や真夏を除く毎月第一土曜に少しずつ歩いてきた甲州街道歩きも、終点の下諏訪宿が近づいてきた。今回は13から15の3日間で韮崎宿—台ケ原宿—蔦木宿と約30キロを歩き、最終日は山梨県から長野県に入るという行程だ。この辺りの甲州街道(国道20号線)は、富士川の支流である釜無川とさらにその支流の尾白(おじら)川に並行しており、周囲の眺めが実によい。左手に甲斐駒ケ岳、途中から右手前方に八ヶ岳も現れ、後方を振り返れば時々、富士山の姿も見ることができる。

 道路脇のあちこちで見かけたコスモスも、幼少時は身の周りにいくらでもあったのに、東京では最近見た記憶がない。

 初日、コースから少々はずれたところに徳島堰取水口というのがあった。

 「江戸深川の商人徳島丘左衛門俊正が幕府の許可を得て私財を投じ、釜無川右岸の農業用水のために約17キロメートルの堰を設けた。箱根堰と柳川堰とともに日本3疎水の一つと言われる」。リーダーが用意してくれた資料を読み返す。「私財を投じて…」に類する字句が入った表示板を目にするのは、何度目だろう。甲州街道の前に歩いた中山道でも何箇所かにあった。江戸時代の金持ちたちの公共精神、利他精神は、今より豊かだったのだろうか。

 「『武川米』と言って、この辺で取れる米はおいしいことで昔から有名だった」。郷里が近いという先輩の言葉に納得する。国道20号線から時々、迂回(うかい)する形で残る旧甲州街道沿いに建つ民家がそろって立派なのだ。庭の植木がことごとくきちんと手入れされているのに感心する。山梨と長野の県境に近づくにつれて、2階建ての立派な家屋も目につくようになった。養蚕業も盛んだった名残という。

 「中央本線より信越本線の方が先にできたので、この辺でとれた絹はある時期まで信越本線経由で東京方面に運ばれた」。長野県出身の別の先輩に教えられる。前に歩いた中山道に比べると、甲州街道の方が難所も少なく、歩きやすい。西方面から江戸に上るには、下諏訪宿から中山道に入らず甲州街道を利用した方がよほど楽だったのでは?

 そんな疑問を口にしたら、すかさず別の先輩が答えてくれた。「参勤交代で甲州街道を使った大名は3藩だけ。大半の藩にあえて中山道を通らせたのは、簡単には江戸に入らせないという徳川幕府の大名支配策という説もある」

 通信社時代の先輩後輩には物知りが多く、不勉強な人間にとっては毎回教えられることが多い。

 2日目は宿泊地である甲府から中央本線で日野春駅まで行き、前日歩き終えた甲州街道の出発地点まで長い坂を下る。途中、大きくカーブする箇所での眺めが実にすばらしい。釜無川と大武川が合流する箇所に大きな釜無橋がかかり、そのはるか先には甲斐駒ケ岳が見える。前にどこかで見たような風景だ…。と考えるうち、ひょっとして朝日新聞に昔、連載された石坂洋次郎の小説「山と川のある町」にこれと似た挿絵が載っていたのでは、という気がしてきた。

 帰京後、インターネットで「山と川のある町」の中古文庫本を探し、ついでに同じ作者の「石中先生行状記」1-3部と共に注文した。「山と川のある町」が朝日新聞に連載されたのは1956年5-9月と知る。編集者が小学5年生の時だ。

 甲州街道を歩き始める前夜、浅草で飲んだばかりの高校の先輩から郵便物が届いていた。「2次会ではお世話になった」という添え書きと現金が入っている。思い当たることがないので、翌朝、電話したところ「2次会でお金を払わせてしまったので、半分返した」とのこと。2次会へ行ったこと自体全く記憶がないから、われながらあきれる。

 「年をとると、新しい出来事ほど早く忘れる。昔のことはよく覚えているのに」。何人かに聞いたことがあるが、編集者の場合は相当、深刻ということだろうか。記憶はどんどん減り続け、残るは小学生以前のころのことだけ。そんな現実が近づきつつあるのかも…。

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