やることなすこと全てがワンテンポ、あるいはもっと遅れるようになっているのだろう。指示されていた中央本線の電車にまた目の前で発車されてしまった。乗り継ぎ可能であるのを、事前に確かめていたにもかかわらずだ。
30分ほど遅れて、勝沼ぶどう郷駅に着き、甲州街道へ出るなだらかな坂道を下り始めると、幹事から携帯電話。世話の焼ける男だと思われているだろう、と反省する。心がけの悪さとは正反対にすこぶる快適なお天気だ。空はあくまで青く、甲斐の山々の山肌がくっきり見える。最初の見どころである勝沼氏(武田信玄の叔父勝沼五郎)館跡をパスして、甲州街道に面した旧田中銀行博物館で仲間に追いつく。
昔の銀行というのは、行員も客もスリッパに履き替えていたらしい。無料で建物内を見学できるだけでなく、案内係の親切な熟年女性がお茶を振舞ってもくれる。明治時代に勝沼郵便電信局舎として建設された後、大正になって「株式会社山梨田中銀行」として改修された、とのこと。2階が居室になっており、由緒ありそうな調度品などが自然な状態で置かれている。太平洋戦争中、銀行の真向かいにある田中本家(現在、所有者は移っているそうだが)に北白川宮が疎開しており、銀行の2階は宮の関係者が住んでいた。調度類は、北白川宮が帰京される時にお礼として残していったという。
不心得者がいたずらしたり、持ち去ってしまったら…。貧乏性の人間としては、すぐ気になる。
だいぶ前に神保町シアターで「秀子の車掌さん」(成瀬巳喜男監督、1941年)という古い映画を見たことを思い出す。この時、高峰秀子が17歳だから、「綴方教室」(山本嘉次郎監督)でほぼ自身と同年齢の主人公少女を演じた3年後の作品だ。原作は井伏鱒二の「おこまさん」である。田舎のおんぼろ路線バスの車掌が、本来の車掌業務だけでなく名所案内をしようと思い立つ。ライバルバス会社の羽振りのよさに何とか対抗しようという感心な心がけからだ。人の好い相棒運転手が、すぐ賛同し、都心から時々、骨休み日に来る作家(井伏鱒二自身がモデルだろう)が二人から頼まれて案内文の作成を…。といった、まあどうということのない筋である。ただし、成瀬監督だから原作にはない場面も含め、細部が何とも面白い。
「皆様、この大通りは甲州街道でございます。左手の枝道が青梅街道です。この二つの道はこの地点で合流して…」。どういうわけか、主人公のこのセリフを忘れずにいた。八王子あたりの話なのかな、と映画を見たときは深く考えもせずに思ったものだ。通信社時代の仲間と日本橋を起点に月1回のペースで甲州街道を歩き始めたのは、昨年の春ごろだったろうか。八王子付近に来たとき、この映画のこのセリフを思い出し、調べてみた。ひょっとして、映画に出てきたような懐かしい風景に出会えるかも、と。しかし、検索してみて作品の舞台は、もっと先の甲府付近と知る。甲州街道、青梅街道というのはえらく遠くまで離れ離れのルートをたどっているのだなあ、とそれ以上、詳しく調べないままでいた。
別の予定とぶつかって2度ほど休んでしまっているうちに、この日のコースは甲府にだいぶ近づいている。両側にブドウ園が続く甲州街道を歩きながら再び、「秀子の車掌さん」を思い出し、仲間の一人に尋ねてみた。「甲州街道と青梅街道がぶつかる所って、この辺りだろうか」
「地図で見たら、あっちの方で青梅街道と合流するみたいだったが…」。あまり自信なさそうではあるが、指差す方は、東京方向である。さては、2度ほど休んでいる間に通り過ぎてしまったか、と少々、がっかりする。
しかし、これは早合点であった。帰京して調べてみたら、この日の終点、JR山梨駅よりさらに甲府寄りの所まで行かないと、甲州街道と青梅街道は合流しない。主人公の名所案内に出てくる「酒折の宮」も同様。酒折の宮というのは古事記にも出てくる由緒ある場所とのことで、映画の中でそこまでしゃべっていたかどうかは忘れてしまったが、井伏鱒二の原作でおこまさんは、次のようにも言っている。
「この盆地は、一面の湖水であったと伝えられ…」
それで合点がいった。どうしてこの辺りの中央本線は、北側に大きく曲がっているのか、が。この日の集合場所の勝沼ぶどう郷駅も、解散地の山梨駅も甲州街道からだいぶ北に離れた所にある。中央本線が開通したころ、甲府盆地の真ん中に線路を造ることができなかったのだろう。多分、盆地の入り口との高度差があって、当時の鉄道技術あるいは蒸気機関車の力では、盆地の縁に沿って迂回(うかい)するように線路を造らざるを得なかったのだろう、と。
原作の「おこまさん」には、こんな記述もあった。おこまさんの乗務するバスは甲府市と富士五湖方面を往復しているのだが、途中にある御坂峠に冬、雪が降ると「その雪が解けてしまうまで、運転を休んでいる」。