レビュー

編集だよりー 2007年10月14日編集だより

2007.10.14

小岩井忠道

 中山道を歩く会は、最大の難所といわれる和田峠までたどりついた。和田宿-下諏訪宿の間は24キロあり、中山道宿場間では最も長い距離である。その上、峠の頂上は標高1,500メートル余あり、坂道は細く急峻…。リーダーからさんざん脅されていたので、前夜、スポーツ店でストックというものを初めて購入した。もっとも土曜朝に東京を電車で発つので、峠越えは2日がかり。江戸時代に比べたら、はるかに楽ということだろう。

 初日は、和田宿から峠頂上の手前まで歩き、迎えにきた宿のマイクロバスでいったん戻る。翌日曜に前日の終点までまたマイクロバスで送ってもらい、歩き始めた。実はこのあたりまでは、これが最大の難所?という感じである。これじゃあ、碓氷峠の坂本宿(群馬県)側の方がよほど険しいではないか。拍子抜けの気分だったが、下諏訪宿側への下りにかかると、一転する。街道というより山道で、それもここをどうやって馬が通れたのかと思うような狭くて急な個所がいくつもある。

 峠の頂上近くに永代人馬施行所という復元された建物があった。そこの説明板に書かれていた意味が、ここまで来てやっと理解できた。江戸呉服町のかせ屋(加瀬屋)与兵衛という商人が幕府に千両を上納し、その利子百両のうち50両でつくられたとある(残り50両は碓氷峠に同じ施設をつくるために使われた)。そこで、冬期に峠を越える旅人に粥一椀、馬には1年中、小桶一杯の煮麦がふるまわれたというのだ。

 「1両10万円というから、千両といえば1億円か」。説明文に見入っていると、隣で歩く会仲間である元先輩記者の声。

 与兵衛というのも立派な商人だが、江戸時代にこんな“寄付制度”がきちんと機能していたとは、幕藩体制というのも融通が利くところもあったではないか。すっかり感心してしまった。しかし、利子を使ったというのが、もう一つ分からない。

 途中、手洗いがほとんどないのに往生しながら、下諏訪宿へ到着。帰京してウェブサイト「日本歴史地名大系」を開き、疑問が解けた。「基金の実際の借主には尾張藩主がなり、利子は碓氷峠では坂本宿、和田峠では和田宿に各50両交付となった」というのである。

 これでみると尾張徳川家が千両の借り主になり、和田峠、碓氷峠の永代人馬施行所の維持費として和田宿、坂本宿にそれぞれ毎年、50両ずつを与えていた、と読める。和田宿の場合、永代人馬施行所建設時に必要とされた人足、馬は和田宿が提供し、与兵衛からは41両の送金があった(千両とは別にという意味だろう)というから、それぞれの公共精神には頭が下がる。

 寝る前に「水戸育英会100年史」刊行のための原稿整理をする。水戸育英会は、現在、財団法人で総裁は代々、水戸徳川家の当主が務めている。水戸徳川家の第13代当主で、日本赤十字社社長や貴族院議長なども務めた徳川圀順公が1907(明治40)年に私財を投じ、本所小梅町の邸内(現在、隅田公園になっている)に郷里出身の大学生などのための寄宿舎を始めたのを発端とする。

 編集者が頼まれた原稿整理というのは、寄宿舎生OBの機関誌に載っている大先輩たち(故人が多い)の記事の中から、編集責任者が指定した100年史に再録する記事をせっせとスキャナーで読み取り、電子ファイル化する作業である。このOB機関誌の創設にかかわり、亡くなるまで編集責任者だったのが叔父だから、100年史編集責任者に頼まれれば断れない。

 作業の結果、これまで読んでなかった大先輩たちの記事に触れ、水戸育英会事業が、いかに水戸徳川家によって成り立ってきたかがあらためてよく分かる。学生時代、当時、渋谷の一等地にあった寄宿舎で仲間とテニスに興じたコートが、財団法人水戸育英会の土地ではなく、水戸徳川家の所有地だったということも初めて知った(昭和40年に寄宿舎が移転する際、移転費用を出すため、財団に寄贈される)。

 江戸時代と現在では、日本社会のありようは大きく変わっているが、寄付という観点から見た場合、どのような変化があったのか、あるいはなかったのか。徳川幕府も、今の日本政府のように寄付行為に税制上の優遇措置を与えることは、特例を除きやはりいやがったのだろうか。

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