最高気温が30℃近くまで上がったというこの日、府中の大国魂神社からJR日野駅まで甲州街道を歩いた。交通量が多いため車道を目いっぱい広くとろうとしたためだろうか、このあたりの歩道の狭さに驚く。後ろから自転車が来ると、よけるのに一苦労だ。もっとも先方はもっと迷惑だろう。30人もの高齢男女の長い列を一人一人やりすごすのだから。
お寺と神社くらいしか目を引くものはないが、高安寺、谷保天満宮、南養寺などその広さといい立派さに感心する。谷保天満宮では石段に腰を下ろして握り飯を食べていたら、放し飼いにされている鶏がすぐそばまでやってきた。昔は身近によく見かけたけれど、いまやさっぱり目にすることのない褐色の羽を持つ見栄えのよい鶏だ。
だれも相手にしなかったらそのうち「コケコッコー」と見事な鳴き声を聞かせ始める。優しい仲間の1人がざるそばの麺を少量与えると、器用についばみ、最後にくちばしを地面にこすってきれいにし(?)、悠々と林の中に引き揚げて行った。
日野の渡し碑のすぐそば、多摩川にかかる立日橋を渡ると日野宿だ。都内で唯一の本陣という「日野宿本陣」に着く。1864年火災で焼失したのを当時の当主、佐藤彦五郎が立て直したという堂々たる日本家屋だ。黒光りしているヒノキの大黒柱に驚く。一辺の長さが一寸5分(約45センチ)もある。彦五郎は、新選組副長、土方歳三の姉の夫で、新選組局長、近藤勇の義兄弟でもある。早く両親を亡くした歳三は、姉の嫁ぎ先であるこの佐藤家によく出入りしており、京に上る前の近藤勇も都心から多摩地域に来るたびにしばしば、世話になっていたという。
近藤勇、土方歳三の波乱万丈の生涯については、幼少時に見た東映時代劇程度の知識しかなかった。「日野宿本陣」で案内人の手慣れた説明を聴き、パンフレットなどに目を通すうち、自分の年齢と平板な人生に思いが行く。近藤勇、土方歳三ともに、30代前半で生涯を閉じているのだ。駆け抜けた人生としか思えない。
二人とも悲劇的な最後だったが、辞世の句が残っている。有名人の辞世の句なるものを、何度か見聞きしたが、かねがね疑問に思っていることがある。間違いなく本人の作と言えるのはどのくらいあるものだろうか。「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」。息子共々、釜ゆでの刑に処せられたという石川五右衛門など、いつ辞世の句などよむ暇があったのか。どういう状況でだれにこの句を託したのか。不思議でならない。
「日野市立新選組のふるさと歴史館」発行のチラシ「甲州道中と日野宿」を読むと、大田蜀山人が、何度か日野宿を訪れ、彦五郎の打ったそばに感嘆したという話が書いてある。蜀山人が御家人の身分で、玉川通普請掛り勘定方という職にあったなどということは無論、知らなかったが、玉川巡見という公務で日野宿本陣に立ち寄ったのが61歳の時、というのには驚く。
編集者が社会人になったころは大体の企業の定年は55歳だった。60歳まで段階的に延長するまで労使ともにものすごいエネルギーを費やしたのをよく覚えている。江戸幕府には定年制などなかったのだろうか。
ウィキペディアを見たら蜀山人は74歳まで生きたという。辞世の句というのを読んで、笑った。近藤勇、土方歳三のような生き方、終わり方は無縁としか言いようがないが、こちらの方はひょっとして真似できるかもしれない、と。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」