「特区」と呼ばれる政策はこれまでもあった。私の記憶の範囲内では、小泉政権時の、地域の活性化を図ると同時に規制緩和政策として実施された構造改革特別区域(略称:構造改革特区)政策がある。
これにより例えば早稲田大学は九州・福岡に他大学や企業と連携しロボットを自由に操る(乗りこなす)ことができる特別エリアをつくることができ、今世界のロボット開発拠点となっている。独立行政法人理化学研究所・和光キャンパスがある埼玉県・和光市では外国人が居住しやすい環境づくりのための特区を目指していた。日常の買物の際、クレジットカードがどんな小さな商店街でも使うことができる和光は、東京都心より進んでおり非常に便利に思った(他にも本質的改善はあったであろうが、当時和光市の住民であった私はその便利さがとても印象に残っている)。ささいなことであるが、キャッシュをあまり持ち歩かない外国人にとっては便利であったようだ。
その他、地域事業として地域で解決できる規制緩和には有効な制度であり、幾つかの成功例はあったようだ。最近の政策では内閣府が行なったスーパー特区と呼ばれる医療特区制度がある。しかし、これはほとんど機能しているようには見えない。また、どの研究課題も臨床研究から治験、医療現場への還元の必要性と緊急性を感じているようには思えない。
去る11月3日に独立行政法人科学技術振興機構(JST)主催のサイエンスアゴラで「イノベーションと規制を考える」をテーマに公開討論会を行なった。私自身は医療関連分野に近い領域で研究を進めているが、規制はエネルギー環境関連分野、情報IT関連分野、廃棄物関連分野とさまざまなところに存在し、非常に国益を損ねているように思われた。基礎科学中心の研究をしている時は、規制の問題に気づくこともなく素通りできた。自分が医療応用しようと考え、企業と商品化までのタイムスケジュールを立てる段になって、大きな壁として現れた。これまで基礎研究用機器の商品化までの行程は幾つかの企業と経験していたため安易に考えていたが、医療機器に関しては全く別ものであり、海外の力に頼るしかないと思うようになった。
私自身は脳神経科学者である。脳科学分野における規制とは何かであるが、医療分野には大きく分けて、薬物(あるいは再生医療や免疫分野の細胞など)関連分野と医療機器分野の規制問題がある。私はむしろ後者に関係している。脳活動の本質は電気的活動であり、どのような複雑な高次機能現象(精神活動、思考、学習、運動その他)も電気的活動が機能を制御している。神経回路間の電気的活動バランスが崩れた状態が疾患であり、崩れた活動を元にもどすことにより健常な状態を取り戻すことができる。また失われた機能は、人工的に電気信号を入れることより補償することも可能である。実際、パーキンソン病に代表される運動障害やうつ病や統合失調症といった精神疾患も電気刺激で劇的に改善される。
この治療までの行程を実現するためには、脳神経学者、さまざまな分野の工学者、脳外科医などが連携し、ゴールから逆算した技術開発と各種技術統合とチームプレーが必要なのであるが、生物学の分野において、このようなサイエンスの仕方も審査・評価法も成果の挙げ方も理解できる人材がほとんどいない。例えば、ロケットを飛ばす際、どの担当個所が欠けてもロケットが飛ばないように、生物学にも目的先行型のチームプレーが存在することを理解できる生物学者がほとんど育っていないのである。チームプレーの場合1つの技術だけが突出していても、必ずしもそれが役に立つとは限らず、基本的には個人プレー(あるいは単一分野の研究者からなる)基礎研究分野とは、研究の進め方も、評価の仕方も視点も全く異なるわけである。日本において、このチームが構成でき実働できる機関は極めて少ない。
さらに、過剰にリスクをとることを恐れる日本人の気質からくる過剰な規制が科学技術分野の発展を妨げている。脳の中に埋め込むデバイスを作成し、実際にヒトに応用していくためには、開発(改良も含む)されたデバイス(医療機器)が実際に臨床医の手により臨床研究され、次いで治験を行ない、厚生労働省から認可を受けはじめて患者にとって保険適用可能な治療方法となる。
この過程に薬事法、医師法、製造物責任法、保険法、刑事法(業務上過失致死罪の取り扱い)などのさまざまな規制が関与し、ワイヤレスのデバイスを開発したらさらに電波法に触れることも分かってきた。日本の要素技術が優れている(各論的にはイノベイティブ)にもかかわらず、科学技術がもたらす最終産物(治療法や諸々の産業技術とその産物)などの恩恵を自国(国民)に還元できないことが、マクロレベルでみた場合の日本のイノベーションに限界を与え、回り回って経済も悪くしている。
この問題は長い間放置されてきた。その結果、科学技術面では簡単な心臓用ペースメーカを作る技術も失い、今日本で最先端とされている医療機器分野の技術は世界的に見た場合、何世代昔のものか分からないほど立ち遅れた産物となった(要するに技術統合できる人材を育てることができなかった。)。今、優れた部品を製造できる中小企業技術(要素技術・部品さえ)も風前の灯火(ともしび)で、新たな医療機器開発能力も完全に失われようとしている。
加えて、同じ装置を使った異なる疾患治療さえも認可されないため治療の幅も海外でしか広められない。その結果はそれほどオープンにもされず、リスクを取った所(国や機関)にだけ還元されていく。日本は徐々に孤立化し、情報も入りにくくなる。臓器移植問題同様、将来、日本国においては言うまでもなく海外ですら日本人が治療を受ける権利を失う日は近い(リスクは取らないがベネフィットだけ欲しいという姿勢は海外からみた場合わがままにしか映らないため)。これが、現在、日本の医療技術水準を低くしている1つの理由でもあり(他にもいろいろ複合的な理由はあるが)、問題解決の必要性に気づいた時には手遅れなのである。今、気づく必要があり、今がほとんどラストチャンスであろう。
このような状況下、規制の問題を科学するというレギュラトリーサイエンスという分野が最近取りざたされるようになってきた。規制を強化する緩和するということだけでなく、もう少し体系的(学問的)にレギュレーションを扱っていこうとういう分野である。これこそ社会に役立つ科学を実行実現しようと思った場合(真のイノベーションを考える上で)避けて通れない必要な分野であるが、残念なことに、これも日本ではあまりなじみがない。
前述の複合的要素を同時に解決していくことは難しいが、日本の発展を考えた場合、避けて通れないと思う。日本だけで実現が難しいのであれば、例えばシンガポールと日本を1つにからめた「特区」として相補的に問題解決を行なって行くなどの実施例が必要であろう。シンガポールのルールも決して甘くない。しかし、シンガポール人は日本人の対極に近い国民性を有しており、合理性に富み、多くの情報からポイントとなる情報を抽出する能力に長(た)けている。また、人間の総合力という意味でのバランス感覚があり、医療機器や医療技術をはじめとする物事の国際標準化の場として最適であると思う。いずれブランドメーカー、トレンドメーカーとしての力を徐々に発揮してくるはずである。
規制を日本だけで突破していくのではなく(これまでのルートではなく)、目的ごとに、世界全体を視野に入れた別ルートの開拓と駆使により、日本に利益を還元する道はあると考える。今、これまでとは異なる特区政策として「イノベーション特区」を実現することにより全く新しい医療技術実用化までのラインをひくことが急務であろう。
尾崎美和子(おざき みわこ) 氏のプロフィール
1987年東京理科大学薬学部卒、薬剤師。89年同修士課程修了、総合研究大学院大学博士課程1期生として入学、92年同大学院大学(国立遺伝学研究所)博士課程修了、博士(理学)。京都大学薬学部、日本学術振興会特別研究員(PD)、大阪バイオサイエンス研究所特別研究員、米国立衛生研究所(NIH)博士研究員を経て、96年理化学研究所フロンティア研究システム研究員として赴任、脳科学総合研究センター設立に協力、2005年早稲田大学・生命医療工学研究所教授、06年シンガポール早稲田オリンパスバイオサイエンス研究所(WOBRI) 副所長・リサーチディレクター、09年9月早稲田バイオサイエンスリサーチシンガポール研究所(WABIOS:早稲田大学のブランチ研究所)主任研究員.・神経科学分野リサーチディレクター、シンガポールブレインマシンインターフェイス最高運営責任者。第7回日本女性科学者の会奨励賞受賞。日本女性科学者の会理事、副会長も。