「急を要する臨床研究体制の改革」
医師が少なくて地方の病院が悲鳴を上げている。特に産科や小児科の医師不足は深刻-。医療の現場での暗いニュースが相次いでいる。こうした目に見える医療の危機に加え、最近、日本の医療システムの大きな欠落部分が問題視されて来たる。臨床研究の立ち後れによる先端医療の導入の遅れだ。この問題に早くから気づき、「総合的迅速臨床研究(ICR)の推進-健康・医療イノベーション」という提言もまとめている井村裕夫・科学技術振興機構研究開発戦略センター首席フェロー(元京都大学総長)に聞いた。
―医療後進国からの脱皮を図るにはどのようにしたらよいのでしょうか。
これは何とかしなければならない、と総合科学技術会議の議員をしていた2001年~03年ごろから痛感していました。しかし、当時はゲノム解読に力を入れなければならない時代で、ゲノムやタンパクの研究が優先され、臨床研究は細々としかできませんでした。総合科学技術会議議員を辞めるとき「心残りの一つが臨床研究」とどこかでしゃべったらしいんですね。それでは研究開発戦略センターでやりませんか、ということになり首席フェローを仰せつかりました。その道の専門家5,6人を集めて議論を始め、総合的迅速臨床研究(ICR)を提言しようということになったわけです。
なぜICRを提言したかですが、米国では20年位前から「トランスレーショナルリサーチ」、日本語で「橋渡し研究」の必要性がやかましく言われていました。動物実験で面白い結果が見つかったので、これをヒトに持って行こうとすると、非臨床試験として7,8種類の動物実験をやらなければなりません。その上で日本ですと医薬品医療機器総合機構の承認、法律的には届出となっていますが実態的には承認を得なければならないのです。ものすごくお金もかかります。そういうハードルを越えてやっと臨床に持っていくことができます。ここでまた医師は忙しい診療の合間を縫って患者をリクルートし、機関内の倫理委員会にかけるなどいろいろな手続きをとらないといけないのです。たいていの医師はこれでへとへとになってしまいます。
その結果、薬なり技術なりが有効だと分かれば、論文は書けます。世界で初めて確認した、ということで自分では満足はできるわけです。そこまでやればもういいだろうと、ここで研究を止めてしまう人も出てきます。一般的に「橋渡し研究」といわれていたのはこの時点までなのです。実は、米国においても同じような傾向がありました。それではいかんのではないか、となったわけです。
そこから先はイノベーションが必要です。社会的価値、経済的価値が生み出されないといけない、ということです。論文書いただけでは、社会的、経済的価値は出てきませんから。臨床試験をさらに進めて、米食品医薬品局(FDA)や医薬品医療機器総合機構の承認を得て、一般的治療に使えるようにしなければならない、ということですね。そこがなかなかできなかったのです。
FDA(米食品医薬品局)は数年前にそのことに気づき「クリティカルパスリサーチ」を提言しました。臨床研究でもたもたしているのを、一挙に最終ゴールまで進めようという提言です。
日本は初めのところから遅れてしまっています。最初から“一気通貫”に全体を効率的に進める必要があるということで「総合的迅速臨床研究(ICR)」を提言しました。
―「総合的迅速臨床研究(ICR)」の具体的な内容を聞かせてください。
第一の提言は「初めからゴールをある程度決めてやりなさい」ということです。例えば、臨床疫学で、この病気は日本に患者がどのくらいいるかが大体分かります。その中で薬で治療できそうな人はこのくらいいる、という臨床疫学のデータをちゃんと持ちなさい。他方、新しい薬の候補が出てきたら動物実験をやって効果を確認する。この両方をつき合わしてみて、開発に成功したら、このくらいの数の患者さんに使えると、そこまで見通して研究を進めなさい、ということです。
第二の提言は、薬の開発を例にとると、臨床研究はフェーズ1(第1相)からフェーズ4、さらにその後のエンドポイントまで、一つ一つステップを踏んで進められています。これらいくつかのステップのうち、統合できるところは統合しなさい、ということです。当たり前のように見えますが、なかなかできていなかったのです。
提言の三は、今まで有効性や安全性は、臨床の観察でやってきたが、もっとよい方法はないか、より早く有効性、安全性を評価できる方法を探しなさい、そういう研究をやりなさい、ということです。ゲノムの研究が進んで来ており、こういうゲノム持っている人にはこの薬はこういう効き方をする、こんな副作用が出るといったことがある程度、分かってきています。ゲノムを調べて効きそうな人にだけ薬を使えば、よい結果が得られます。
また、分子イメージングという画像診断法があります。この方法を使い薬の有効性や副作用が早く調べられる可能性があります。例えば、うつ病に効果がありそうな薬があるとします。まず、脳に入るのが第1の条件になります。しかし、動物なら脳に入るけれど、ヒトでは入らないという薬はいくらでもあります。分子イメージングを使うことで、その薬がヒトでもちゃんと脳に入るかどうか、どういうタンパクにくっつくかを調べ、有効性や副作用を早く評価することが期待できるのです。
(続く)
井村裕夫(いむら ひろお)氏のプロフィール
1954年京都大学医学部医学科卒業、62年京都大学大学院医学研究科博士課程修了。71年神戸大学医学部教授、77年京都大学医学部教授、89年京都大学医学部長、91年京都大学総長、98年神戸市立中央市民病院長、2001年総合科学技術会議議員、05年から現職。先端医療振興財団理事長、稲盛財団会長も。日本学士院会員、アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員 専門領域は内分泌学。臨床医学の重要性については、神戸市立中央市民病院長時代から具体策の実践にあたり、科学技術振興機構・研究開発戦略センター首席フェローとして提言した「統合的迅速臨床研究」では、“先端医療後進国”日本の抜本的改革策が盛り込まれている。