
核超大国の大統領が自ら「核廃絶」を目指して核戦略の転換を図る—この歴史的な演説の中で、オバマ米大統領はこの戦略転換を進める理由として、原爆を使用した国としての「道義的責任」をあげた。これは重大な意味を持っている。米政府は原爆投下は戦争を早期に終結させた「正しい決定」だったと言い続けてきた。原爆投下の大統領トルーマンは実は、原爆がもたらしたあまりもの破壊に衝撃を受け、後年は「悔悟」の思いを漏らすこともあったが(拙著『世界を不幸にした原爆カード』明石書店2007年)、それは表立って言えることではない。
オバマ発言は原爆投下を直接的に謝罪したものではない(それは現職大統領としてはできない)。しかし、発言は広島・長崎への原爆投下が(無差別大量破壊・殺人という)人道(道義的)問題を伴っていたと認めたことになる。だから米国は「核廃絶」へ向けて行動しなければならない—オバマ大統領は核兵器には「正しい使用」はなく、道義的に使ってはいけない兵器だと言っているのだ。これは「持ってもいけない」(核拡散防止)につながっていく。
核は使われなかった
広島・長崎以後の60余年、核兵器は使われなかった。核の存在が核の使用を抑止するという「核の抑止効果」によると思い込まされてきた。だが、歴史はそれだけでは説明がつかない。
大戦終結からわずか5年後に朝鮮戦争が始まった。戦局が一進一退の膠(こう)着状態に陥ったとき、国連軍最高司令官マッカーサーは原爆使用を公然と主張した。トルーマンはマッカーサーを解任した。このときの記者会見でトルーマンは、原爆は恐ろしい兵器であり、侵略に関係のない無実の人々や女性、子どもに対して使われるものではないと明言した。
1952年の大統領選挙で共和党アイゼンハワー候補は原爆を使わずに戦争を長引かせたとトルーマンを批判、ソ連の東欧支配を「巻き返す」と宣言し、ソ連の侵略に対しては核による「大量報復」を加えるとの威嚇戦略を打ち出した。
アイゼンハワーは当選すると、実際に朝鮮戦争での核使用を検討、(第1次)ベトナム戦争でフランス軍がベトミン軍に包囲され全滅の危機にさらされたとき、米軍首脳部は原爆による救援を進言した。だが、いずれも使用には至らなかった。米国は当時、ソ連に対して圧倒的な核戦力を持っていたし、朝鮮半島やベトナムはソ連の死活的利益がかかった地域でもない。米国が核を使わなかったのは、ソ連の核抑止力があったからだとは言えない。
ケネディ政権の時にソ連がキューバに核兵器を持ち込んだキューバ危機をはじめ、歴代政権のもとで台湾危機、(第2次)ベトナム戦争、湾岸戦争など、核使用が検討される事態が何回も起こった。この間、大きな破壊力の核は使いにくいから使いやすい核が必要だと多種多様の戦術核兵器も開発された。それでも結局、核は使われなかった。
核タブーが定着
米国がなぜ核を使わなかったのか。N・タンネンワルド(米ブラウン大学准教授)はその判断のプロセスを膨大な米政府公式文書をもとに検証した(The Nuclear Taboo, Cambridge 07)。それによれば、核が使われなかった理由は、(1)軍事的に他の手段があった、(2)条件に見合った核兵器がなかった、(3)関係国が反対した、(4)内外世論の非難が予想される、など。これらが複合的に絡み合い、最後に大統領が決断を渋り、使用論を退けるという経緯をたどっている。
このなかで国際世論、特に欧州世論の反発への配慮が、時々の軽重はあっても、常にブレーキ効果を果たしていた。核兵器が使われなかったという事実が積み重なるたびに核は「使いにくく」なり、「使ってはならない」というタブーが定着していったとタンネンワルド 氏は結論づけている。核は「使えない兵器」とも呼ばれるようになった。
第2次世界大戦ではハンブルグ、ドレスデン、重慶、東京など一般市民を無差別に殺傷する都市爆撃が恒常化した。それでも広島・長崎に原爆が投下されると、そのけた違いの破壊と殺戮(りく)に世界は衝撃を受け、原爆は二度と使ってはならないとする批判が広がった。トルーマンも「広島・長崎」に動揺して閣僚に相談することなく、あわてて3発目の作戦中止を命令している。核使用を抑止する「タブー」の始まりだ。この核タブーはトルーマンのマッカーサー解任ではっきりと姿を現したと米作家・コラムニストのJ・キャロル 氏は言う。
核は外交手段にはならない
米ソ核戦力は、ソ連が米国を懸命に追いかけた結果、1960年代に入るころには「大まかな均衡」に到達する。米ソが核戦争を戦えば確実に、双方とも耐えがたい破壊を被るという関係になった。ケネディ大統領とマクナマラ国防長官はこの「相互確証破壊」(MAD)状況の上に核抑止戦略を組み立てた。核兵器は相手の核攻撃(第1撃)に対する報復(第2撃)だけに使うという戦略である。
抑止戦略を受け継いだニクソン大統領、キッシンジャー補佐官は1972年、ソ連との間で戦略核制限条約(SALT・1)とABM条約を結んだ。核攻撃に対する防御システムは配備しないとしたABM条約は事実上、互いに核で先に攻撃を仕掛けることはしない(no first use)、という意思表示でもあった。
2つの核超大国がにらみ合う冷戦が終わって状況は一変し、核拡散の時代が始まった。キッシンジャーは核使用によってもたらされる殺傷と破壊はいかなる外交目的を達成しても引き合わない、と核使用が外交手段になりえないと指摘する。スコウクロフト元ブッシュ(父)大統領安保問題補佐官、ペリー(前出)の両氏を座長に専門家を集めた米外交問題評議会特別チームがまとめた報告書も、核兵器に残された役割は他国に核を使わせないだけになったと主張している。いずれも事実上、核の先制使用放棄の提唱である。
オバマ演説は「核廃絶」が実現するまでは核抑止力を維持するとしている。だが、核兵器使用に道義的責任が伴うとした演説は、米国が先に核を使う可能性を排除している。

(かねこ あつお)
金子敦郎(かねこ あつお) 氏のプロフィール
1954年麻布高校卒、58年東京大学文学部西洋史学科卒、共同通信社入社、社会部、サイゴン支局長、ワシントン支局長、国際局長、常務理事などを経て、97年大阪国際大学教授、2000年同大学国際関係研究所所長、2001年同大学学長、06年名誉教授。08年からカンボジア教育支援基金(KEAF‐Japan) 会長も。共同通信ワシントン支局長時代の1985年、支局員とともに現地の科学者、ジャーナリストの協力を得て米国立公文書館などから約200点もの米政府内部資料や関係者の日記などを入手、多くの生ニュースと連載記事「原爆-四〇年目の検証」を出稿した。著書に「壮大な空虚」(共同通信社、1983年)、「国際報道最前線」(リベルタ出版、1997年) 「世界を不幸にする原爆カード-ヒロシマ・ナガサキが歴史を変えた」(明石書店、2007年)など。