「基礎学力低下防ぐために」
10年前『分数ができない大学生』という本が社会に大きな衝撃を与えた。編著者でその後も基礎学力低下が招く深刻な影響に警鐘を鳴らし続けてきた西村和雄氏(現・京都大学経済研究所長)が、小学生の学力向上、モラル向上活動にも取り組んでいる。高校生、大学生への対応では手遅れと考えたのだろうか。1月に「京都からの提言 これからの社会のために-子どもを導く切り札」というシンポジウムを東京で開催した氏に現状と取り組みを聴いた。
―『分数ができない大学生』にも紹介されていますが、この本が出る16年前の1983年に米教育長官の諮問委員会による報告書「危機に立つ国家」(注)が出ているのですね。ここで提言され、その後の歴代政権で実施に移されたことと正反対のようなことが日本で行われたということでしょうか。
米国が数学や理科を初めとする教育の重要性に気づいたのに、日本で基礎学力を無視するにはよほど確固たる何かの思想がないとできないですよね。それが、いわゆる新学力観です。学力はペーパーテストで測れないということですから、面接や論文入試、自己推薦で測ろうとなるわけです。基礎学力ということが言われなくなって、反復学習も否定されるようになりました。
それから絶対評価、観点別評価といわれている今の評価にも問題があります。本来の絶対評価は80点以上なら全部5でなければなりません。ところが今言われている絶対評価とは、意欲、関心、態度を点数化するというものです。内申書もこれでつけているのです。
個性を重視するのは当然です。では、個性を重視するというのはどういうことでしょう。子供に対しては、変なことで縛らず、規則をできるだけ少なくするというのが個性を重視することでしょう。個性とはこういうものだからこうするでは、個性を重視しているとは言えません。個性重視の御(み)旗のもとに、実は個性を無視して、押し付けているわけです。
日本にはいろいろな規則やルールがあって、むしろ型にはめることを強いています。わざわざ個性を重視する必要などなく、自由にさせればいい。自由にすれば個性などは発揮されるのです。
勉強についてですが、好きなものだけ勉強したらいいというのはよくないのです。われわれが定年の後に勉強したいというなら、好きなことだけやればいいわけですが、小学生には、すべてを勉強させることが必要です。高校もそうです。すべてを勉強した上で、何が得意か、何が不得意かということを自分で発見させる。それが個性です。限られたものだけしか勉強しなかったら、自分がこれからやる選択肢を著しく狭めてしまいます。つまり、やってから不得意だというのはいいのです。最初からやらなくていいというのは、個性重視ということとは関係ないと思うのです。
―ではどうしたらよいのか、を伺います。
先生をよくするということはできないです。例えば、先生が悪いという言い方をしますが、今いる先生をやめさせて、別な人にとりかえるということはできないでしょう。じゃ、何をしたらいいかといえば、教科書をよくすることです。これはできるはずです。教科書のレベルを落とさないで分かりやすくすれば、確実に学力は向上します。そのためにはカリキュラムです。カリキュラムをよくして教科書をよくするのです。
もう1つは少人数クラスです。これは教育の王道で、それに尽きると思うのです。これをやらずにほかのことをやるから悪くなっていくのです。
それで、私たちは、優れた教科書への提案として、自学自習用の教科書『学ぼう!算数』をつくりました。今の検定教科書は、簡略すぎて親が教えることができません。親がちょっと見ても教えられる。ただし、付きっきりでなくてもよい、自学自習用の教科書です。答えも付いています。どういう効果があるかというと、できる子はどんどん先に進んでいく。できない子は、できるところまで戻ってもう一遍繰り返せます。それができないと、今の落ちこぼれの問題は解決しません。
先生が黒板の前に立って生徒全員に同じことをやらせる一斉学習はやめたほうがよいのです。教科書を自学自習用にして、個別学習を可能にすることで、子供たちがお互いに教え合うこともできます。
―その教科書『学ぼう!算数』は、どのように活用されているんですか。
2005年に埼玉大学経済学部教授の岡部恒治さんという数学者と教育現場の先生数人、大学院生、大学生で3年かけてつくりました。2年から6年生用まで6冊あり、数研出版というところから出しています。Amazonで購入できます。公立、私立の学校からフリースクール、民間の学習塾でも使われています。英会話教室のECCが「学ぼう!算数コース」をつくって全国展開しています。全部で20万部くらい出ているのではないでしょうか。
東京都の学力調査で、1年間これを使った最下位近い学校が一気にトップクラスの成績を挙げたということも聞いています。5年生で一番できなかった子が4月から使い始めて9月に算数の幾何で 100点をとり、11月に国語の漢字で100点をとった、ということです。自学自習だから、読解力がつきほかの科目の成績もよくなるのです。親も一緒に勉強するようになって、家庭が変わってしまったという話もあります。
- (注)
「危機に立つ国家」(A Nation at Risk)
レーガン米政権が教育の危機的状況を訴えた報告書。高校で履修すべき基礎教科(国語、数学、理科、社会科、コンピュータ科学)の学習に、より時間をかけることや、大学の入学許可基準を高めることなどを提案し、全国的な教育改革のきっかけとなった。
(続く)
西村和雄 (にしむら かずお)氏のプロフィール
札幌市立旭丘高校卒、1970年東京大学農学部卒、72年東京大学農学部大学院修士課程修了、76年ロチェスター大学大学院経済学研究科博士課程修了、ダルハウジー大学経済学部助教授、78年東京都立大学経済学部助教授。ニューヨーク州立大学経済学部客員助教授、南カリフォルニア大学経済学部客員准教授なども経て87年京都大学経済研究所 教授、2006年から現職。国際教育学会会長、日本経済学教育協会会長も。2000-2001年日本経済学会会長。NPO日本経済学協会会長、NPO Sustainable Fellowship International理事長、NPO これからの教育を考える会理事 。『学力低下と新指導要領』(岩波書店)『「本当の生きる力」を与える教育とは』(日本経済新聞社)、『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』(日本経済新聞社)『学力低下が国を滅ぼす』(日本経済新聞社)『子どもの学力を回復する』(共著、数研出版)『学ぼう!算数』(共著、数研出版)など著書多数。