インタビュー

第3回「小児医療の崩壊防ぐために」(五十嵐隆 氏 / 東京大学大学院 医学系研究科小児科 教授)

2009.03.30

五十嵐隆 氏 / 東京大学大学院 医学系研究科小児科 教授

「子どもを大事にする国に」

五十嵐隆 氏

少子高齢化はいまや日本社会を表す最も代表的な言葉になっている。一方、高齢者に対してはさまざまな形で政府の予算が投入されているのに比べると、子どもに対する公的支援は恐ろしく貧弱だという声もよく聞かれる。子どもへの関心、支援が二の次になっている理由の一つは、深刻な現状を多くの人が十分に知らないからではないか。小児科医として、子どもの健康、生育環境がないがしろにされている現状に警鐘を鳴らし続けている五十嵐隆・東京大学大学院小児科教授に、日本の子どもたちの置かれている危機的な状況について話してもらった。

―増える小児虐待

英オクスフォード大学のリチャード・モクソン教授は、健康維持にはきれいな水の確保が一番だが、次に大事なのは予防接種だと言っています。ワクチンで予防できる病気はできるだけワクチンを使って予防する、というのが世界の常識です。しかし、日本の現在の予防接種体制は、世界の標準からはるかに遅れた極めて深刻な状況になっています。

例えばB型肝炎は、B型肝炎ウイルスに陽性の母親から生まれた子にのみ健康保険適用の予防接種が行われているだけで、子どもたち全員にはやっていません。米国では、B型肝炎は性感染症だから小児期に打っておくべきだということから、すべての子どもに定期接種しています。同じく米国で定期接種されているMMR(はしか・おたふくかぜ・風疹混合)ワクチンのうち、日本ではおたふくかぜ(ムンプス)ワクチンが入っていないMRワクチンが定期接種されています。しかし、任意接種のためにおたふくかぜワクチンをこどもたちは3割しか受けていません。その結果として、おたふくかぜに感染した子ども1,000人のうち1人あるいは2人が重い難聴になってしまいます。

水痘(すいとう)のワクチンも定期接種でないため、こどもたちの接種率は3割ほどです。小児用の髄膜炎菌ワクチンに至っては日本にまだありません。肺炎球菌ワクチンは高齢者用のものだけがわが国で使用されています。この多糖体ワクチンは子どもに打っても免疫がつきません。一方、米国では子どもにも効果のあるコンジュゲートワクチンが使用されています。肺炎球菌は肺炎に加えて子どもの髄膜炎の原因になりますから、ぜひ導入してほしいのですが、まだ実現していません。

インフルエンザワクチンは、昔は小・中学校の子どもたち皆に接種されていましたが、ある時から中止されています。一方現在の米国では6-23カ月の乳幼児全員が高齢者とともに定期接種の対象になっています。A型肝炎も米国では定期接種されていますが日本では行われていません。25年くらい前まで、日本と米国とはほとんど同じような種類のワクチンの接種が行われていたのですが、日本はその後ほとんど新しいワクチンが導入されて来なかったため、現在では両国間に大変に大きな差が生じています。問題のあるワクチンが日本でかつて使用されたり、有害事象が生じるとすべてワクチンのせいにする風潮が日本には強く、こうしたことが新しいワクチンの導入に厚生労働省を消極的にさせた可能性があります。

―不十分なインフルエンザ菌b型に対する予防接種

インフルエンザ菌b型により髄膜炎にかかった8カ月の男児の例をお示しします。CTで脳の萎(い)縮、脳室の拡大やくも膜下腔に膿(うみ)がたまっている所見が見られました。結果として重篤な中枢神経障害が生じました。インフルエンザ菌b型ワクチンを接種していればこのような不幸な結果は避けられたと思います。ようやく日本にもインフルエンザ菌b型ワクチンが昨年12月に導入されましたが、残念ながら定期接種ではありません。1歳までに3回、さらにもう1回の計4回接種が必要ですが、1回ごとに約7,000円かかります。若い夫婦がなかなか出すのは難しい額ではないかと懸念されます。

近年、ゼロ歳児保育が増えており、現在、年間109万人生まれる新生児の8-9万人が1歳までに集団保育を受けています。集団保育すると必ずインフルエンザ菌b型にさらされることになり、その結果、一部の子どもたちが細菌性髄膜炎にかかります。インフルエンザ菌b型による髄膜炎の患者さんは年間600人あるいはもっと多いのではとも推定されており、中には咽頭蓋炎(いんとうがいえん)という窒息してしまうような病気にもなる子がいます。米国では1988年にインフルエンザ菌b型ワクチンが接種されるようになってから、2歳までにこの菌による髄膜炎にかかる子がワクチン接種以前の5%以下に減ったという実績があります。ぜひ、日本でも定期接種にする必要があると思います。

日本は「はしか輸出大国」だということも、知ってほしいことです。はしかワクチンを接種していない高校生、大学生を中心に2006年から春、初夏にかけてはしかの小流行が見られています。この年の4月からMR(はしか・風疹混合)ワクチンの2回接種が導入され、応急処置的に08年度から5年間に限り、13歳(中学3年生)と18歳(高校3年生)の全員にはしかワクチン接種されることになりました。この年からはしかがすべて届ける感染症の対象になりましたが、08年の患者数は11,000人に達しています。

―世界では発がん予防の方策にも

予防接種については、直近の感染防止という目的に加え、感染症による将来の発がんを予防する方策というとらえ方が世界的には現実になりつつあります。大人になってからがんにならないようにするワクチンを子どもの時に打っておくのです。性感染、母子感染の恐れがあるB型肝炎ウイルスワクチンやヒトパピローマウイルスを接種して将来、肝がんや子宮頸(けい)がんになるのを予防する試みが海外ではなされています。さらに将来に向けて、消化器系のがん、肝細胞がん、成人T細胞白血病、ぼうこうがんなどを予防できるワクチンの開発が進められています。 日本小児科学会は、毎年のように厚生労働省に要望書を出し、予防接種体制を世界標準にしてほしいと働きかけています。日本学術会議の臨床医学委員会出生・発達分科会も活動方針に予防接種の世界標準化を盛り込んでいます。

―勤務医を大事にする体制に

小児科学科に属する医師は、現在19,000人で小児の救急医療に百パーセント対応するのは不可能です。わが国は少子化傾向にあるにもかかわらず小児科医は不足しています。地域によっての偏りも大きく、小児科医の数が少なくない地域でも救急体制が不十分というのが実態です。小児科医の原点は、ある考えや政策を自分のためにうまく言い出せない人たち(子ども)のために、別の人が声を大にして外部に訴えるアドボカシー(advocacy)の精神を基本にしています。子どもの立場に立って、その権利を尊重し、常に深い愛情と思いやりを持って接し、子どものための医療を実践したいと望んでいます。

しかし、現実には、本来、時間外に来るような病態ではない患者が深夜に受診したり、結果が悪いとただではすまさないなどと医師を脅す患者の増加、それでなくても時間外労働が多く、当直の翌日の休みも確保されていないなどの過酷な病院勤務、さらに多発する医療訴訟などによって、患者のため、子どものために頑張ろうという医師の動機が損なわれています。

実際に、若いうちに病院勤務医を辞めて、開業する小児科医が増えています。給与、夜間の仕事量など格差が大きすぎるからです。病院勤務医を大事にしない体制が続く限り、例え医師を増やしたところで、小児科、産科あるいは修練に時間がかかる外科などの勤務医になりたがらない人が増えるでしょう。このままでは日本の小児医療体制は確実に崩壊します。ぜひとも病院の勤務医を大事にする体制を作ることが必要です。

日本には老人保健法という高齢者を大事にする法律があります。子どもにとっても親にとっても安定した生活を保障するための経済的、身体的、精神的な支援を行うための基本法として「小児保健法」を制定するよう運動していますが、国民の皆さんのご支援をぜひお願いしたいです。

(完)

五十嵐隆 氏
(いがらし たかし)
五十嵐隆 氏
(いがらし たかし)

五十嵐隆(いがらし たかし) 氏のプロフィール
1978年東京大学医学部医学科卒業、82年東京大学医学部付属病院小児科助手、85年米ハーバード大学ボストン小児病院研究員、91年東京大学医学部付属病院分院小児科講師、2000年から現職。医学博士。日本学術会議会員。日本小児腎臓病学会理事長、国際小児腎臓学会理事、日本小児科学会評議員なども。

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