予防接種の重要性と国民からの評価
人の健康維持にとって予防接種(ワクチン)は清潔な水を確保することの次に重要な手段です。特に免疫の未熟な子どもや免疫の低下している高齢者を感染症から守る点でワクチンは有効です。わが国ではかつて新MMR(麻疹、ムンプス、風疹)ワクチンを導入した時に不備なワクチンを使用したためにムンプスによる髄膜炎患者が多数出てしまいました。一方、ワクチン接種による稀な合併症がマスコミによって過度に強調されてきました。このような理由で、わが国ではワクチンに対する国民の不信感が他の国よりも強い状況にあります。
世界的標準に及ばないわが国の予防接種体制
麻疹をはじめ多くの感染症に対するワクチンがわが国でも用いられています。しかし、わが国では同時接種できる混合ワクチン(複数のワクチンを混合し、一回の注射で済ますことが出来る)製剤が少なく子どもへの負担が多い、麻疹や百日咳などワクチン接種回数が少ないために成人になって抗体価が低下し感染してしまう、ポリオのように二次感染のリスクのある生ワクチンが使用されている、インフルエンザ菌b型やロタウイルスなどのワクチンが日本では実施されていない、水痘、ムンプス、B型肝炎ウイルスなどのワクチンが定期接種(国が行うことを定めた予防接種)になっていないので実施率が低いなど、世界的標準に及ばない状況(ワクチン・ギャップ)にあります。
実際、日本人の子どもが米国の小学校に入学する際、日本で行った予防接種では入学を認めてもらえず、複数の予防接種を入学前に受けなくてはなりません。
人口がわが国の2倍以上ある米国では毎年麻疹患者は100名以下の発症数です。しかし、米国の麻疹患者の多くが日本人旅行者からの感染と言われています。麻疹患者は1,000人に一人が死亡します。日本小児科学会や日本小児科医会では麻疹予防接種率を上げるキャンペーンを行い、接種率が上がってきていますがまだ不十分です。また、一昨年からはそれまでの一回接種をMR(麻疹、風疹の混合)ワクチンとして二回接種(1歳時、小学校就学前の1年間)に回数を増やし、定期接種としました。しかし、過去の麻疹予防接種の接種率が低かったために、一昨年、昨年の春から初夏にかけてわが国の10代、20代の青年を中心に多数の麻疹患者が発生しています。このような問題を解決するために、本年から5年間に限って現在の小学2年生から高校2年生の子どもに公費で麻疹ワクチンを行うことになりました。
導入が望まれる予防接種
わが国では毎年約600名の乳幼児がインフルエンザ菌b型(Hib)による細菌性髄膜炎に罹患し、約10%が死亡し、30%程度に重篤な中枢神経障害を残します。また、Hibは窒息の原因となる急性喉頭蓋炎の原因になります。米国では20年前からHibに対するワクチンを導入し、Hibによる細菌性髄膜炎の頻度が1%程度に減少しました。わが国ではHibワクチンが昨年認可され、本年から接種することが出来るようになる予定です。しかし、定期接種でないため多くの子どもをワクチンで守ることができません。定期接種にしなくてはなりません。
肺炎球菌も乳幼児の肺炎や細菌性髄膜炎の原因として重要です。わが国で使用されている肺炎球菌ワクチンは旧式のワクチンであるため有効性が限られており、しかも定期接種になっていません。より有効性の高い新式の肺炎球菌ワクチンを導入し、定期接種にすることが望まれます。
ヘルスリフォームとしての予防接種
B型肝炎ウイルスは肝炎、肝硬変、肝がんの原因となります。B型肝炎ワクチンはわが国では母子感染予防として主に用いられています。しかし、B型肝炎は世界的には性感染症として捉えられており、小児期に定期接種をしない国の方が少数になっています。
ヒトパピローマウイルス(HPV)は感染後しばらくしてから女性の子宮頸がんを発症します。若者の性交開始年齢が低下し、最近では子宮頸がんの女性患者が若年化してきています。わが国では毎年2,500人ほどが子宮頸がんで死亡しています。米国では一昨年より11〜12歳の女児にHPVワクチンの接種が開始されました。わが国ではHPVワクチンが近い将来認可される予定です。
予防接種のさらなる進化
これまで予防接種は感染症による直接的な死亡や障害を防ぐことが主眼でした。しかし、HPVワクチンなどのように、がんを予防し健康的な生活を送るというヘルスリフォームとしての手段としてワクチンを捉えるようになっています。胃がんの原因となるピロリ菌に対するワクチンなどが現在開発中です。
有効で安全性の高いワクチンの開発、ワクチンによる有害事象への適切な対応、予防接種の重要性を国民に正しく理解して戴く啓発活動がこれから求められています。
五十嵐隆(いがらし たかし)氏のプロフィール
1978年東京大学医学部医学科卒業、82年東京大学医学部付属病院小児科助手、85年米ハーバード大学ボストン小児病院研究員、91年東京大学医学部付属病院分院小児科講師、2000年から現職。医学博士。日本学術会議会員。日本小児腎臓病学会理事長、国際小児腎臓学会理事、日本小児科学会評議員なども。