レビュー

「津波てんでんこ」を科学で乗り越える試み

2018.11.30

保坂直紀 / サイエンスポータル編集部

 近海の海底に巨大地震の巣を抱える日本列島は、大津波から逃れられない宿命にある。そのとき、人々はどう避難すればよいのか。その街の人たちが避難場所を目指していっせいに歩き出したとき、限られた時間でほんとうにそこまでたどりつけるのか。その「限られた時間」とは、具体的に何分なのか。最近は、コンピューターの高性能化を背景に、かなりリアルな避難行動のシミュレーションができるようになってきた。大津波からの避難は、失敗が許されない一回限りの集団行動だ。津波が来たら、人にかまわずとにかく自分で逃げろという「津波てんでんこ」。科学はいま、この言い伝えを乗り越える試みを続けている。

避難の「難所」を明らかにする大規模シミュレーション

 海底を震源とする巨大地震が発生すると、海底の地盤の大きなずれが海面に伝わり、それが大津波となって四方八方に広がっていく。日本近海でこの巨大地震が起これば、それが日本列島を襲う。2011年3月11日の東日本大震災が、まさにそうだった。将来、日本列島の南の沖に横たわる海底の溝「南海トラフ」で、このような事態になることが確実視されている。太平洋岸には、大都市もある。そこで多くの人々が避難所を目指したとき、どんなことが起こるのか。

 「このような大規模避難のシミュレーションを津波のリスク評価に適用した例は、これまでになかった」。東北大学災害科学国際研究所の今村文彦(いまむら ふみひこ)所長は、こう説明する。街の人たちがいっせいに避難しようとすれば、混雑するなかで他人とぶつかり合い、人の渋滞も起きる可能性がある。人の流れの予測は一人でも多くの命を救うためには必須のはずだが、津波からの避難について、大都市での実際の人口まで考慮したリアルなシミュレーションは、これまでなかったというのだ。それをいま、災害科学国際研究所や東京大学地震研究所などの研究グループが試みている。

 東北大学博士課程3年の牧野嶋文泰(まきのしま ふみやす)さんらは、川崎市を中心とする約100平方キロメートルの臨海部を対象に、昼間人口の約34万人が津波から避難する想定のシミュレーションを行った。人々が避難するとき、混雑すれば歩くスピードは落ちる。大勢が交差点に集中すれば、お祭りの人ごみと同じように動けなくなる。こうした状況を再現できるよう、避難所を目指す34万人の一人ひとりについて、各人が道路のどちらにどう進むのかを、近くにいる他人との衝突を避ける動きなどを含めて計算し、それぞれの位置を100分の1秒ごとに推定していく。近年のコンピューターの高性能化を背景に、こうした膨大な計算ができるようになった。

 シミュレーションでは、人々は、地震発生から5〜15分後くらいのあいだに避難所を目指して行動し始めると想定した。もっとも多くの人が避難を始めるのが地震から10分後。かなり現実的な状況だ。

 その結果、これほどの大都市になると、人が集中して極端に動きが遅くなる場所があることがわかった。津波から逃げようとしても、動けなくなってしまうのだ。早めに動き出した人が避難を始めて10分、すなわち地震の発生から15分が経過しても、まだ大勢が道路にあふれて動けなくなっている。もしここに津波が岸を乗り越えて流れ込んできたら、多くの人命が失われかねない。そういう避難の「難所」が特定されたのだ。

図1 地震・津波で避難する人(赤い点)の動きのシミュレーション。地震の発生から15分の時点。津波で浸水する場所の情報がなく、全員が避難所を目指したと仮定している。人が集中する場所で渋滞が起きている。(図はいずれも牧野嶋さんら研究グループ提供)
図1 地震・津波で避難する人(赤い点)の動きのシミュレーション。地震の発生から15分の時点。津波で浸水する場所の情報がなく、全員が避難所を目指したと仮定している。人が集中する場所で渋滞が起きている。(図はいずれも牧野嶋さんら研究グループ提供)

大都市では「てんでんこ」が最善ではない可能性がある

 こうした人の渋滞を避ける方法はないのか。じつは、この34万人のなかには、避難しなくてもよかった人が含まれている。大津波が来ても浸水しない場所にいる人は、避難する必要がない。この一帯に大津波が来たと考えられる「慶長地震」(1605年)が再来したと仮定して計算したところ、地震発生から2時間半後に津波で浸水している地域にいる人は約8万3000人。34万人のうち、この人たちだけが避難すると想定したシミュレーションでは、短時間で避難を完了できた。

図2 図1と同じだが、津波で浸水すると予想される場所にいた人だけが避難した場合。人はまばらで、スムーズに避難できる。
図2 図1と同じだが、津波で浸水すると予想される場所にいた人だけが避難した場合。人はまばらで、スムーズに避難できる。

 つまり、大都市では「津波てんでんこ」が最善の策とはいえない可能性があるということだ。将来、大津波が発生したとき、浸水する場所を正確に即時予測できれば、それ以外の場所にいる人たちには、「避難しないでください」「道路に出ないでください」と呼びかけることで、より多くの人命を救うことができるかもしれない。

津波予測の精度には課題も

 この結果をもとにすると、次のような避難の理想形が考えられる。巨大地震が発生し、大津波がこちらに向かってくる。津波による浸水範囲をいち早く予測計算し、浸水しないとわかった地域にいる人には避難しないように呼びかけ、浸水地域の避難を優先する。そうすれば、街角で人が渋滞して命が危険にさらされる避難者も減る……。

 こうした避難を可能にする前提は、実際に大津波が発生したとき、浸水域を正確に、しかも避難に間に合うようにコンピューターで計算して人々に知らせることだ。だが、「津波に関する予測の精度は、まだ高いとはいえない」と今村さんはいう。

 この臨海部を対象にした今村さんらの研究プロジェクトでは、津波そのものについても、さまざまな研究を進めている。想定される巨大地震で発生する可能性がある何通りもの津波を、あらかじめ計算してデータベース化しておくこと。実際に津波が発生したら、このデータベースから最適なものを選ぶのだが、それに加えて、たとえば東京湾の入り口に津波計を設置して実際の津波を計測し、その情報をもとに予測精度を高める方法を探る。市街地への浸水をより正確に予測する研究も進めている。

最新の科学を社会課題の解決に使わない手はない

 「津波てんでんこ」は、過去の経験から得られた手堅い教訓だ。それに対し、科学研究の最先端は、つねに現在進行形であり、かならず不確かさが伴っている。津波防災の科学研究も、事情は同じだ。この点をついて、「防災に最先端の科学は似合わない」「防災は手堅い知識をもとに計画すべきだ」という声も聞こえる。

 だが、科学はいま、研究に必須の道具といえるコンピューターの進歩で、扱えるデータ量が飛躍的に増え、「量の変化」が「質の変化」に結びついてきた。牧野嶋さんらの避難シミュレーションも、その一例だ。社会がまじめに検討する価値のある科学の最新成果は、防災分野でも増えている。たとえば、異常に暑かった今年の夏は、もし地球温暖化がなければ、出現する確率はほぼゼロだったことがわかっている。いまから10年ほど前なら、地球温暖化の影響かどうかはわからなかった。地球温暖化で将来の大雨の降り方がどのように変わり、河川が氾濫する危険性がどう変化するかも明らかになってきた。こうした成果を自治体など社会の側が使わないのは、もったいない。

 科学の知識は、つねに更新されていく。完成形はない。今村さんは、この避難シミュレーションに自動車の動きを加えると、結果は変わってくるかもしれないという。発展途上なのだ。だが、現段階のシミュレーションのなかにも、実社会に役立つヒントはすでに芽生えてきている。科学成果の完成形などそもそもありえないのに、それを待って、防災をはじめとする社会課題の解決に現在の科学を取り入れることをためらうのは、得策とはいえない。実際に川崎市は、今村さんらと共同で、津波防災の質を科学で高める計画を進めている。使える科学は、その限界もわきまえたうえで、どんどん使えばよい。ようは、使い方なのだ。

 科学を「産業と結びつけて金もうけに使う」という旧来路線の延長でのみとらえるなら、NHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる」のチコちゃんに、「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叱られそうだ。社会が抱える課題の解決に、新しい科学の成果をどう生かすのか。先端の科学に特有の「不確かさ」を、社会はその意思決定にどう取り込むのか。それを社会の側が本気で考えるべき時が来ている。

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