連載が始まって何年になるのだろうか。日経新聞木曜朝刊スポーツ面のコラム「チェンジアップ」を、うっかり忘れない限り毎週愛読している。読み終わって「損した」と思った記憶がない。筆者の豊田泰光氏とは10歳以上離れているが、同郷である。あらためてウィキペディアを見て、笑った。西鉄ライオンズの選手時代、「山川さん」と呼ばれていた、と書いてある。「山」と言われると「川」と返すように、他人の言うことを素直に聞かないから、というわけだ。考えてみると、いやあらためて考えるまでもなく、編集者自身にも似たようなところがある、と認めざるを得ない。
2月28日朝刊の記事は、体罰に引っ掛けたものだった。多くのスポーツ関係者や識者のコメントとはやはり違う。一般論や建前をもっともらしく繰り返される心配はない。まず、水戸商を出てすぐに入団した年のキャンプでは、ベテランも新人も旅館の大部屋で一緒に寝起きした、という体験談に驚く。確かに当時、普通の家庭では大人も子供も同じ部屋で寝るのが珍しくなかったと思う。とはいえ、プロ野球の選手たちまで似たようなものだったというのが信じがたい。これでは、高校の運動部の合宿と似たようなものではないか。
こうした集団生活を送る中で、高校を出たばかりの若者でも、人を見る目ができてくる、と続くところが、豊田氏らしい。「新人をただこき使うだけの人にはレギュラーになりきれない選手が多かった」一方、大下弘のようなスター選手は「まだあるのにたばこを買って来いといい、つりを小遣いにくれた」。こんな体験談も、なるほどありそうなことだ、と納得する。
新人をただこき使うだけ、という行為と、今あらためて大きな問題になっている体罰とは、やる人の気持ちに共通するところがあるのではないだろうか。人を管理したい、集団を自分の思う通りに動かしたいというのは、少なからぬ人が持つ欲求だろう。
これが行きすぎると、体罰という行為になるのではないか。往々にして自分の能力に自信がない人が、体罰という誘惑に逆らえない…。
豊田氏の記事は、体罰の根底にあるものが何かを的確に示唆しているように感じた。
ちなみに、野武士集団などと当時言われた西鉄ライオンズに体罰はなかった、というのである。一見、意外な気もするが、よく考えると不思議ではない。必要以上に他人を管理しようなどと思わないスマートな選手たちが多数を占め、体罰に走る傾向を持つ人たちに対するブレーキ役になっていた、と考えれば。多分、三原脩監督もまた、「管理、管理」では選手たちの最大限の力を引き出せない、と考える人だったように思える。
作家や研究者などと違って、書く能力を特に問われない。そんな業界で長年すごしたにもかかわらず、感服する文章を書ける人はどのくらいいるものだろうか。編集者など、豊田氏のほかに高峰秀子さん、池部良氏くらいしか思い浮かばない。この中で健在なのは豊田氏だけだから、「チェンジアップ」が長く続くことを祈るばかりだ。
夕方、評判の映画「レ・ミゼラブル」を観た。冒頭の場面から、最近の映像技術の迫力にあらためて驚く。最近見た「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」でも大いに気になったことがある。どこまで実写で、どこがコンピュータ・グラフィクスなのか見分けがつかないことだ。
この映画の魅力は多々あると思うが、ジャン・バルジャンを逮捕することなく自殺してしまうジャベール警部が「法か正義か」といった意味のことを自問するシーンが、印象に残っている。
規則や決まりがこうだからこうでなければならない。そんな見方や主張に常に懐疑的というところにも、豊田泰光氏の記事の魅力はあるような気がする。