雨が降っていたけれど歩いて30分とかからない明治学院大学に出かけた。「高峰秀子追悼シンポジウム『映画渡世50年』」(文学部芸術学科主催)が目的だ。昨年暮れに亡くなった大女優の一筋縄では捉えがたい魅力をあらためて教えられた気がする。
「高峰さんほど男っぽい人はいない」と言われ、さすがの彼女ものけぞった。どこで読んだか忘れてしまったが、そんな記述をよく覚えている。言葉の主が木下恵介監督だからだろうか。木下監督は同性愛者ともいわれた人だから。
高峰秀子が谷崎潤一郎、志賀直哉、新村出、川口松太郎、梅原龍三郎といった大家に可愛がられたという話はよく知られている。なるほど、そうであれば特にある年齢から自分が尊敬できない人間には厳しい態度を取っただろうなあ。紅野謙介・日本大学文理学部教授の講演「秀子の『綴方教室』-エッセイストの誕生-」からそんな思いを抱いた。紅野氏によると数多い著書の一つ「人情話 松太郎」(1985年)の中に次のような記述があるという。
「私は、五歳にもならぬ子供のころから映画界の人込みの中で育ったから、人を見る目だけは相当のすれっからしである。自分の目でシカと見た人の他は信用をしない。女優という職業柄、いわゆるお偉いさんや有名人にはずいぶん会ったけれど、川口先生のように自分に真っ正直で気っ風がよく、そのくせホロホロと涙もろい…」
もう1人、「子供のまま年を取ってしまったような、ナイーブ、ガンコ、ワガママ、いたずらな文章がなんともいえず好きだった」と言われたのが内田百閒だ。「おいしい人間」(1992年)の中で百閒からもらった手紙の文面が紹介されているという。「…を整理している内にまもなく春になり、春の次には夏が来て、夏の次には秋が来て、あなたと何月何日にお目にかかる、ということをいまから決めることは出来ません。どうしましょうか」。要するに「一度会いたい」という高峰秀子の誘いを断る手紙である。
誘った方としてはがっかりしたに違いないし、ひょっとしたらムッとしたのではと想像する。しかし、彼女はそんなことはおくびにも出さず、百閒の人となりから手紙までを褒めているわけだ。それだけ好意を持っていたということだろう。
紅野氏の講演の本筋も興味深い。出演した名作の原作者たち、豊田正子(綴方教室)、林芙美子(浮雲、放浪記)、幸田文(流れる)からどのような影響を受けてエッセイの達人といわれるまでになったかをたどったものだった。好きな作家が「志賀直哉、内田百閒、司馬遼太郎、井上ひさし、沢木耕太郎、女なら幸田文、白洲正子」(インタビュー「高峰秀子における『書く』ということ」(斎藤明美))というのも、何となく分かる気がする。気取ってない、という共通点がありそうだ、と。
シンポジウムの主催者が用意してくれた資料は数ページなのだが非常に親切だった。最も有名な著書ともいえる「わたしの渡世日記」上下巻(1976年)からの引用文も面白い。青山斎場で行われた谷崎潤一郎の告別式で献花する途中、遺骨に向かって思わずしゃべりかけてしまった、ということから始まる話だ。2,3日後の新聞に「…青山斎場で見た高峰秀子の泣き顔は、映画で見る彼女の泣き顔と全く同じであった。女優というのはあのような時でさえ演技をするものか…」という意味のことを書かれたという。
「執筆者の名前は忘れたが、たしか大学の先生であった。それを読んだとき、私はカッとトサカにきた。その人は、告別式に出席しながらも女優の表情を克明に観察して、文章に売るような人間だから、しょせんは縁のない人だから…」。と記した後は、演技というものについて自身の考え方を述べ、その大学の先生に見事な反撃を加えている。「わたしの渡世日記」が出版されたのは、谷崎潤一郎の告別式が行われた11年後である。高峰秀子を普通の女優とみなし文才も知らなかったこの先生が、果たして「しまった」と後悔しただろうか。
といった経緯に加え編集者が面白かったのは、高峰秀子という人がまるで関心を抱かない、あるいは嫌う人間がどういうタイプかを、この文章からも何となく想像できるということだった。偉そうなそぶりをみせる人間、地位や肩書きにこだわる人間などなど…。
最後の講演者、晏?さんは「戦時日中映画交渉史」という著作で昨年度の芸術選奨文部科学大臣賞 を受賞した中国人の映画研究家・評論家だ。「ポスト李香蘭になりそこなった高峰秀子の戦中と戦後」というタイトルで、中国との関係から高峰秀子の業績に迫る興味深い話をした。
「エノケンの孫悟空」(1940年)という映画で、李香蘭(山口淑子)、高峰秀子ともうひとり中国人女優、汪洋が共演しているという事実も初めて知ったが、高峰秀子に上海留学の話があり、つぶれたという話も興味深い。太平洋戦争後、中国人と思われていた李香蘭(山口淑子)が対日協力者として危うく死刑になるところだったという話は有名だろうが、汪洋も同様の批判を浴び、自殺に追い込まれたと聞いて驚く。
李香蘭との比較から高峰秀子を論じた晏?さんの主張は難しくてよく理解できなかった部分もあるのでこれ以上踏み込まず、晏さんが高峰秀子の著書「にんげんのおへそ」(1998年)から引用した興味深い言葉を紹介したい。自分自身を「生来、重度のうつ」で「女優時代の50年間は虚像と付き合っていただけ」と表現しているのにはやはり驚く。さらに「虚像はギクシャクとふてくされ、ジャーナリズムの誤解を生んだ」という記述にも。
記者という人種も大体は彼女にあまり好かれなかったのでは、と思い至る。