第24回東京国際女性映画祭で、羽田澄子監督の「いま原子力発電は…」と我謝京子監督の「3.11ここに生きる」を観た。東日本大震災後の東北地方被災地で、さまざまな生き方をしている女性たちを追った作品と、茨城県東海村の原子力発電所、再処理施設の安全性を問うた35年前の作品を並べて上映、というのがまず面白い。さらに、ドキュメンタリー映画を撮り始めて54年、しかもまだ話題作を撮り続ける羽田監督と、デビュー作品「母の道、娘の選択」をこの映画祭で上映したのがわずか2年前、という我謝監督の取り合わせも関心を呼んだのだろう。会場(セルバンテス文化センター東京オーディトリアム)は立ち見客が出るほどだった。
「事故、事故というが、故障…。炉を止めて点検すれば済む」。原子力発電所の安全性を疑わない原子力展示館館長の言葉に、会場から失笑が起きる。しかし、一緒にゲラゲラ笑うわけにもいかない。原子炉に冷却水が入らず、炉心溶融になるような事故が日本の原子力発電所で起きるなんて…。そう思い込んでいた大半の日本人と、編集者も似たようなものだったからだ。東日本大震災が起きるまで。
藤本陽一・早稲田大学教授(当時、現名誉教授)の言葉が耳を突く。「交通事故のような過去に事例が多いものなら危険を確率で表すことは可能。しかし、事例がほとんどなく、いつ事故が起きるか分からないような原子力発電の危険性を確率で表すことはできない」。当時、原子力事故の可能性が非常に小さいことを説明するために、米国のラスムッセン報告がよく引用されていた。報告に対するこれほど簡潔で分かりやすい批判を、あのころ当時聞いた記憶がない。
この作品がつくられたのは、1976年である。1本25分、13回続きテレビ番組「地球時代」として、放送番組センターから岩波映画製作所に制作依頼されたうちの1本だ。「財団法人放送番組センター」は、1968年に放送の健全な発達を目的として、放送界全体の共同事業としてつくられたという。番組を外部につくらせ、放送各社に供給する役割を果たしていたそうで(今はこの事業はやめている)、視聴率をそれほど気にせず番組制作ができていたということだろうか。
作品の中で羽田監督は、当時のキーパースンと思われる人たちにインタビューを試みている。しかし、東海村まで取材に出かけたのに、運転中の日本原電東海発電所1号機(1966年営業運転開始、98年営業運転停止)、建設中の同東海発電所2号機(78年営業運転開始)さらに動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)の東海再処理施設(運転開始直前)とも、施設内部の撮影は許されなかった。安全性を主張するものの、積極的に理解を求めることには及び腰。そんな当時の原子力推進側の姿勢が分かる。羽田監督自身、最近までこの作品のことはすっかり忘れていたそうだ。びくびくしながら観直してみて安心した、と会場で語っていた。「原子力発電所に対する不安をきちんと提示した作品になっていたから」という。
我謝京子監督の「3.11ここに生きる」は、76分という労作だった。程度はさまざまだが、大震災の被害を受けながら被災地で生きる女性たちが多数、登場する。その姿は多様で、それぞれたくましく、頼もしい。しばしば現れる被災地の状況は、あらためて息をのむようなものが多いが、人々の振る舞いは絶望といったものとはだいぶ違う。しばしば観客の笑いを呼ぶような場面が出てくる。我謝監督は、テレビ東京で記者、ディレクターを経験し、今、ニューヨークでロイターの経済記者として活躍中だ。監督としての視線の確かさを感じた観客も多かったのではないだろうか。
「これは私1人の作品ではない」という上映前のあいさつが腑(ふ)に落ちる。「彼女たちの復興は始まったばかり。私はこれからも10年にわたって彼女たちの復興を記録する」。東京国際女性映画祭のプログラムに我謝監督の言葉が載っていたからだ。
数多い登場人物の中で、とりわけ魅力的に描かれている夫妻がいた。自分たちも家を失いながら被災者たちの面倒を見ている。他人を元気づける特に妻の振るまいが何とも言えず自然で、しかしエネルギッシュだ。妻の人柄を認め、主導的な役割を果たす妻に黙って協力する夫も立派だが…。「女が頑張る社会はよくなるの。男は弱いから…」。妻のこの言葉だけでも、我謝監督には脱帽という感じだ。
2つの作品を見終わって、「『フクシマ』論-原子力ムラはなぜ生まれたか」の著者、開沼博氏に寄稿してもらったばかりの記事を思い出す(2011年9月29日オピニオン「3.11以前からの『フクシマ』の目撃者として」参照)。その中に次のような言葉がある。
「原発を抱擁する社会」。開沼氏は、米国の日本研究者、ジョン・ダワーの著書「敗北を抱きしめて」からヒントを得て、原子力発電所を分析しようとしたという。ダワーが太平洋戦争敗戦という「敗北」を前にした日本人を「ただそれを嫌悪し打ちひしがれる姿としてではなく、ある面では積極的に、能動的に受け入れしがみついてすらいく姿として描くことによって歴史の重層性と社会の複雑さを複雑なままに理解することを可能にした」ように、出身地、福島県の原発立地地域を捉えてみよう、と。
我謝監督の視点と共通するものを感じる。