そうであったなら今の新聞社、通信社の経営も困ってなどいなかったはず、とまで言い切る自身はない。ただ、多くの女性記者をもっと早くから採用していたら、いまよりはるかに多様な記事が増えていたのではないか、という気はする。
17日に開幕した東京国際女性映画祭(東京都写真美術館ホール)を2日続けて観て、かねがね感じていたことをあらためて思い起こした。同映画祭が始まったのは1985年だそうだ。回を重ねているとはいえそんなに古い昔ではない。編集者が長く勤めていた通信社が女性記者を恒常的に採用し始めたのは、そのわずか1、2年前である。女性は泊り勤務ができない、というのがほとんど唯一の世間向け「口実」だったと思う。毎年、恒常的に採用といっても男に比べるとわずかな人数だけという時代も結構続いた。日本全体が男性社会だとはいえ、ほとんど男だけが牛耳る社会を男だけが取材し、記事にする。先進国としては恐らく例外的とも言える時代がつい最近まで続いていたということではないか。
2日目最初の作品は、ニューヨークでロイターの記者をしている我謝京子さんのドキュメンタリー「母の道、娘の選択」だった。週末を利用し、7、8年かけて撮ったという。87年に上智大学外国語学部を卒業してテレビ東京に入社、報道記者、ドキュメンタリーディレクターとして活躍した後、退社し、2001年からロイターの経済記者としてニューヨークで母子単身赴任生活を送る、という経歴だ。
テレビ東京時代は、96年ペルーの首都リマで起きたテロリストによる日本大使公邸襲撃占拠事件を現地で取材、報道し、「流れ弾に当たって死んだら娘はどうなるのか」という思いにかられたこともある。ロイター入社直後の01年には、9.11同時多発テロ事件で住んでいたマンションが立ち入り禁止になるという目にも遭った。
これら自身の半生も含め、ニューヨークで活躍する日本人女性の働きぶりとそれぞれの母子関係を追ったのが今回の作品で、監督1作目でもある。出てくるのは、タフな女性ばかりだ。登場人物の1人は言う。「日本に私のような35過ぎの女性、その上シングルマザーなど雇うところある? 帰国する気など全くない」
M&A交渉などで実績を重ね法律事務所で高い地位を得ている女性、最初は普通の日本人的行動をしていたものの、「なぜ自己主張をしないのか」と仲間から助言されてはっと気づき、以来「とんとん拍子に」位が上がった投資会社勤務の女性…。共通しているのは、国内にいたらとてもこのような働きはできなかった、という思いだ。
「母の道、娘の選択」上映後、我謝さんをはじめ今回作品が上映される日本人女性監督4人を含むパネリストたちによるシンポジウムが開かれた。監督は我謝さん以外、30代だ。
司会の東京国際女性映画祭ディレクター、大竹洋子さんによると「1985年に第一回の映画祭を開いたとき日本人の女性監督は、羽田澄子さんただ1人だった」。女性に活躍の場をなかなか与えようとしなかった点では新聞社や通信社と映画界も似たようなものだったということだろう。
映画を作るには先立つものが必要で、撮った後も発表の場を探すのがさらに大変という難題がある。しかし、撮影、編集機材は近年、急激に軽量、安価になっているから、女性の活躍する場、機会はますます広がっていくのではないか。新聞社や通信社の記者同様、男性には思いつかないような作品を作り出すことも。
大竹さんがシンポジウムで言っていた。「女流というのは差別語、不快語。なぜなら男流とは言わないから。ところが女流棋士という言い方をしているところがあるというので、その日本将棋連盟に電話で抗議した」。確かに共同通信の「記者ハンドブック」にも「女流名人などの固有名詞以外は使わない」語に挙げられている。
電話を受けた将棋連盟の人物(男だろう)の困った顔を想像しながら、「男流文学論」という本があったことも思い出す。上野千鶴子、富岡多恵子、小倉千加子の3氏が、名だたる男性作家を次々に滅多切りにしていた…。