東京ウィメンズプラザで開幕した東京国際女性映画祭をのぞいた。最初の上映作品は、羽田澄子監督の「嗚呼 満蒙開拓団」である。羽田監督の名声は高いが、今年で21回になるこの映画祭で1回目から毎回、作品が上映されているという紹介に驚く。これまで手がけたドキュメンタリーは80本。そんな精力的な仕事ぶりと強固な意志を想像しにくい温和な容貌は相変わらずだ。今回の作品のナレーターも務めており、その明快な語り口からも、1926年生まれという年齢が信じがたい。
最初に出てきた女性は役場の人間から何度も満州への移住を勧められ、応じた山梨の農家の子どもだった。それがなんと終戦の日のわずか3カ月前なのである。内地からわたった満州に家に引越し荷物が着いた日が、終戦の日だったという。
終戦を境に現地の中国人の視線が一変し、殺気立った雰囲気の中を隠れるように逃げる最中、一緒に連れて行くことができない幼児を殺す親を見、自身の母親もまた一番小さな妹を現地の人に預けざるを得なかった、など涙ながらに話す女性も出てきた。上映後のパネルディスカッションを待つ休憩中、4、5列前に座っている女性が後ろを振り返るのを見たら、そのご本人である。優れたドキュメンタリー映画の説得力にあらためて脱帽した。
映画の内容は、日本政府が満蒙開拓団の人々に対し、戦後、極めて冷淡な姿勢をとり続けたことを静かに批判する。逆に日本に帰国した残留孤児と養父母との間の人間的なつながりが淡々と明らかにされてくることで、一層、日本政府、日本人の責任とは何かを考えざるを得ない内容になっている。
パネルディスカッションは、羽田監督のほか、高野悦子・岩波ホール総支配人(東京国際女性映画祭ジェネラルマネージャー)、藤原作弥氏(ジャーナリスト、元日銀副総裁)がパネリストだった。3人とも満州には縁が深く、特に藤原氏はたまたま父親が軍関係の教官だったことで辛くも逃れられたが、級友の大半が越境してきたソ連軍の襲撃によって殺されたという経験の持主だ。こちらの話もなかなか聞くことができないような重みのあるものばかりだった。
映画でも、パネルディスカッションでも、周恩来が高い評価を得ていた。「日本の軍部と日本の国民を区別し、日本国民もまた軍部の犠牲者」という考え方を貫いた姿勢に対してだ。映画では方正(ほうまさ)というところに立つ「方正地区日本人公墓」が、もう一つの“主人公“になっている。ソ連軍に追われ、ここまで逃げてきた満蒙開拓団の人々多数が、ここで命を落とした。在留婦人(映画に実際に出てくる)の願いを聞き入れて、この墓の建設を方正県政府に指示したのが、周恩来だったことが語られている。
周恩来について悪い話は聞いたことも読んだこともないから、大変な人物だったのだろう。日本では比較できるような政治家を探すのは難しいかもしれない。ただ、映画とパネルディスカッションを見聞き終わった後、ふと思った。
周恩来の偉いところに感心しているばかりでよいのだろうか。悪いとされた軍部は、すなわち時の権力者である。権力を握っているものに非常に弱い、つまりお上に弱いと見透かされた上での考え方、姿勢だとみたらどうだろう、と。
ともあれ、この作品が劇場公開されるのは来年6月、岩波ホールでということだが、こうした作品を作る人、上映する劇場があるということに、敬服するばかりだ。
編集者にとっては、最後の字幕を見て、もう一つうれしい発見があった。音楽が高橋アキとあったからだ。途中、決して目立たず聞き逃すくらいに密やかに流れていたピアノの音が、最後だけは、はっきりと奏でられている。羽田監督も彼女の音楽を買っていたのか、と思うと作品が身近に感じられた。(高橋アキについて実は特段、詳しいわけではないのだが、生の演奏を2度ほど聴いたことがあり、2007年9月20日の編集だよりでも触れた)