レビュー

編集だよりー 2011年10月10日編集だより

2011.10.10

小岩井忠道

 今年のノーベル賞は、日本人の受賞者ゼロに終わった。特に期待が大きかった医学生理学賞の受賞者が発表された3日は、用意していた原稿が役に立たなかったのをノーベル財団のホームページで見届けてから、内幸町ホールへ向かう。途中からだが立川志ら乃の落語独演会に十分間に合った。最後の演目が予定になかった「宿屋の富」だったのに喜ぶ。3日前、林家たい平の独演会で聴いたばかりだったからだ。落語というのはオチが難解なものが多く、初めて聴いてふき出すという楽しみにはなかなか巡り会わない。「宿屋の富」は、実に分かりやすいオチに大笑いできた数少ない噺(はなし)だ。

  このくらい短い間隔で同じ噺を聴くと演者による違いまで少しは分かる、ような気になる。旅館の亭主から富くじを買わされた客が、抽選会場を通りかかり、張り出された当選番号から富くじが当たったのを知る。しかし、番号を何度も確かめてもなかなか本当だとは信じられない…。その動転する様が、たい平の方がより真に迫っていて、かつ笑わせる…。なんていっぱしのことをしゃべりたくなる。一緒に聴いた友人たちと新橋駅近くの飲食店でのどを潤した際に、やはり誘惑に負けて偉そうに口走ってしまった。そんな違いが分かるくらいなら、もっと落語も楽しめるはずなのに…。

 たい平の独演会(9月30日、なかのZEROホール)では、「宿屋の富」とともに「らくだ」も聴かせてもらった。この噺については、前から気になっていたことがある。幼少時に映画で観たかすかな記憶があるのだ。ウェブサイトで調べてみると、確かにエノケンの主役で2度、映画化されている。編集者の年齢から逆算すると、最初の作品は作られた年がちょっとだけ早すぎる。観たのは後の方、1957年公開の「らくだの馬さん」(石原均監督)のようだ。小学6年生か中学1年生で東映しか観ていないころだから、東映時代劇との二本立てだったに違いない。

 かすかに覚えているのは、死体を背中におぶって動き回る場面である。何か悪趣味で喜劇らしくない、と子ども心に感じたからではないか。たい平の落語を聴いているうちに思えてきた。この噺の最も面白いところは、人がよく気が小さいと観客がすっかり思い込まされていた主人公が、実は酒乱で途中から人が変わったようになるところだろう。それまでさんざん無茶な用事ばかり言いつけていた乱暴者に逆にからみ出すところが、何とも愉快だ。しかし、この場面はエノケンの映画で全く記憶にない。子どもにとってはどうでもよい場面でしかなかったからだろう。

 この噺のオチは、攻守が逆になった主人公が乱暴者に言う言葉だった。皆が笑うので一緒に笑ったが、どうもできのよいオチとは思えない。

 そもそも落語の「らくだ」とはどういう評価がされている噺なのか。ウェブサイトで検索すると、最後まで演じると1時間ほどになるという。たい平が終わりにしたところはまだ途中で、さらに噺にはやまがある。「らくだ」と呼ばれていた嫌われ者の死体を大きな漬け物おけに入れて火葬場までかついでいく途中で、おけの底が抜け、死体を途中で落としてしまう。死体を探しに戻り、橋のたもとで酔って寝ている願人坊主を「らくだ」と間違えて火葬場に運び、火の中に放り込む。熱さで目を覚ました願人坊主と主人公たちの「ここはどこだ?」「焼き場。火屋(ひや)だ」というやりとりに続く願人坊主の一言がオチになっている。

 「うへー、冷酒(ひや)でもいいから、もう一杯ちょうだい…」

 こちらの方が、たい平のオチよりよほどそれらしい。とはいうものの、恐らく一度聴いただけでは編集者には分からなかっただろうが…。

 矢野誠一が40年前に書いた「落語-語り口の個性」という本がある。読んだのがいつごろか忘れてしまったが、大衆芸能、話芸としての落語の将来を心配しているのが印象深かった。金を払って落語を聴く客(寄席の客)が非常に少ないのに200人もの落語家が生活できている現実の危うさを指摘していたくだりを特によく覚えている。その著書が3年前に文庫(「落語とはなにか」(河出文庫)になっていた。

 図書館で見つけて読み直してみたら、オチ(サゲ)について書かれた個所がある。12種類に分類できるという。「回り落ち」や「さかさ落ち」、さらには「はしご落ち」といったものもある。最初に挙げられているのが「考え落ち」とあるのを見て、笑った。

 「ちょっと聞いただけではサゲが分からないが、よく考えてからああそうかと納得できるもの」

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