「第6回新潮ドキュメント賞」を受賞しているから、知る人は多いと思われるが、週末に何気なく手にとって、途中でやめられなくなった。福田ますみ氏のノンフィクション「でっちあげ—福岡『殺人教師』事件の真相」(2010年、新潮文庫)である。本を読んで恐ろしくなったのは、久しぶりだ。2008年の控訴審で判決が確定した話で、当事者たちも多いから、細部には立ち入らない。結果だけを記すと、教え子に対し精神的、肉体的に“許し難い“行為を行ったと名だたる週刊誌、全国紙、ローカル紙から断罪された教師は復職しているのである。この教師のごく一部の行為だけが認定されたものの、原告である両親の言い分の大半は退けられた。一審も控訴審も福岡市に対しては、原告親子に慰謝料支払いを命じたから、原告側は勝ったと思っているだろうが。
恐ろしいと思ったのは、初公判までに弁護人を見つけ出す力もなかった一小学教師に対し、原告側には何と550人もの弁護団がついた、という事実だ。上司である校長、教頭、市教育委員会には自分より生徒の両親の言葉を正しいと思われ、さらにマスコミの集中砲火を浴びて、よくこの教師一家が耐えられたものだ、と感心する。
もっともテレビキー局の中に、途中から「おかしいのでは」という疑問を投げかける報道をしたところがあったというのに救われる。そういえば足利事件で菅家利和さんのDNA再鑑定をやろうとしない裁判所を批判したのもキー局の報道だったという(2010年5月24日インタビュー・押田 茂實・日本大学医学部(研究所) 教授「法医学の役割-安全で冤罪許さない社会目指し」第3回「無視された検査報告書」参照)。
この本を読んで、五十嵐隆・東京大学大学院小児科教授に聞いたことがある「ほら吹き男爵症候群(ミュンヒハウゼン症候群)」という病気を思い出した。母親に多い精神病で、患者はわが子に市販の下剤を毎日、栄養剤と言って飲ませ、おう吐させたり、点滴に母親が自分のつばを入れてカビによる重症の肺炎を起こし、重篤な状態に陥らせたりする。あるいはわが子の尿検体にホットケーキパウダーを加え、タンパク尿陽性という状態をつくって入院させたという信じがたい行為をするという。なぜ、そんなことをするのか。子どもを病気に仕立て上げ、かいがいしく看病する姿を他人に見せることで、自分の自尊心、満足感を満たすそうだ。夫や家族から愛されていない、尊敬されていない母親が多く、病的な自己顕示欲の裏に、自信のなさや強い劣等感を持っている人たちが多いと考えられている。
小児科医が母親の言うことを疑っていたら、診断は極めて困難だ。さらに、まれに母親の病気に基づく異常な行為に気づいて児童相談所に通報しても、「ほら吹き男爵症候群(ミュンヒハウゼン症候群)」という病気をなかなか理解してもらえないというから、深刻だ(2009年3月23日インタビュー・五十嵐隆・東京大学大学院小児科教授「子どもを大事にする国に」第2回「子どもを不幸にする親たち」参照)。
サイエンスポータルを立ち上げて、丸5年になる。通信社の科学部で取材していた時には、ここから先は社会部や経済部の領域で手を出せない、と端からあきらめていたことが実に多かった、とこの5年の間に折に触れて考えたものだ。大学や研究機関の研究成果は科学記者の領分だが、大学あるいは大学入試のありかた、小中学の理科教育のあり方などになると社会部の所管という住み分けは、文部科学省の発足以降、少しは変わっただろうか。原子力発電の安全問題は昔から科学記者の出番だったが、エネルギー基本計画における原子力発電の占める位置となるととたんに経済記者の所管、というのは多分、今でも変わっていないだろう。
サイエンスポータルの編集にかかわったことで、昔のような気を遣う必要は全くなくなった。もっとも扱う範囲が広がったからといって、能力までたちどころに対応できるようなら世話はない。ビューワーの皆さんが、質量共に満足されておられないということをあらためて肝に銘じる。