レビュー

編集だよりー 2010年4月28日編集だより

2010.04.28

小岩井忠道

 四谷3丁目近くの馴染みの店で、通信社時代の同僚、朝田富次氏と飲んだ。定年退社後も、歌舞伎座が毎月、公演ごとに発行するプログラム「筋書」のレギュラー執筆者として、筆を振るい続けている。

 通信社も日本社会のありようとまるで異なるというわけにはいかない。職場の縦割りは相当なものだった。文化部員と科学部員が一緒に仕事をするなどということはまずない。しかし、氏とは1年間、組合の執行部で慣れない役目を一緒にこなした仲である。いまだに気安く声を掛け合える、というわけだ。

 日経新聞「私の履歴書」欄に連載中の有馬稲子さんの記事が日を追うごとに面白くなった。映画に関心のある読者ならすぐにだれと分かる映画監督との関係をあからさまに…。 このくだりを読んで、朝田氏に電話したのが数日前のことだ。「市川崑と有馬稲子の関係って周知の事実だったの?」「そりゃあ、よく知られている話」。そんなやり取りをするうち、一杯やろうということになった。

  たまたま読売新聞では、市川猿之助氏の記事が連載中である。こちらも面白い。猿之助氏は、伝統に収まらない新しい歌舞伎を追求し続け、さらにいまでも旺盛な創作意欲を維持しているように見える。歌舞伎役者の家というものについて、朝田氏に聞いてみた。

 氏によると、この世界も家格がよければ地位はずっと安泰などという生やさしい世界ではないとのこと。名優だからといって、きちんと弟子を育成しなかったために没落してしまった例はいくつもある。そもそも歌舞伎役者の家は、実子ではなく力のある養子にあとを継がせる例も多い。実子が継いだ場合でも芸を伝える指導は厳しく、親子というよりまさに師弟といってよい…。

 そんな話を聞いた後に、いつか機会があれば聞いてみたいと思っていた質問をした。山中貞雄監督の名作として知られる映画「人情紙風船」をDVDで観て以来、気になっていたことだ。この映画の原作は、歌舞伎の「梅雨小袖昔八丈」(河竹黙阿弥作)である。映画の方は、できあがった脚本にさらに山中監督の手が入ったという。原作にはない浪人夫妻が、実に印象深い。1937年公開というから相当昔の作品なのだが、生活能力がからきしない夫の描き方など、今の時代感覚でも全く古さを感じさせないのに感心する。

 とはいえ、「人情紙風船」も「梅雨小袖昔八丈」同様、主人公は髪結新三だ。原作、映画のいずれにおいても、これがまた妙な魅力を持った人物として活躍する。「元は千葉のならずもので、髪結に化けて江戸に移り住んだ」。さすが演劇記者は詳しい。実在の人物なのだそうだ。実際には相当暗い結末となる実際の事件がモデルになっているということだが、黙阿弥の原作では、南町奉行大岡越前守まで登場し、めでたしめでたしの裁きで終わる。ただし、新三まで助けるわけにはいかなかったのだろう。材木屋の娘と、恋仲の手代をだまして駆け落ちさせ、さらに娘だけ誘拐して自宅に閉じ込め、身代金をせしめる。今ならまずテレビ、新聞が徹底的にたたくに違いないアウトローだ。

 「どうしてこんな主人公の話が受けるのだろうか」。素朴な問いに対する演劇記者の解説は、これまた明快である。「小悪党に昔から日本人は親愛感を持っているから」

 そういえば小学校や中学校でも教師に反抗的で、相当、乱暴な同級生が妙に仲間に人気があったことを思い出す。

 この日は、事業仕分け第2弾の最終日だった。事業仕分けがこれほど国民の関心を集めたのはなぜか。ひょっとして事業仕分け人に、“小悪党”に対するのと同様のシンパシーを多くの人たちが感じたからではないだろうか。髪結新三と一緒にしたら仕分け人にしかられそうだが、そこは融通が効く日本人の気質かもしれない。遠山金四郎や水戸黄門など体制側の人物にも似たようなヒーロー像を求め続けてきた…。

 あれこれ話し込んでいるうち10時近くなってしまう。店を出た後、朝田氏はタクシーを拾って歌舞伎座へ飛んでいった。この日は、60年の歴史に終止符を打ち、建て替えられることになった歌舞伎座の千穐(しゅう)楽である。「最後をちゃんと見届けないとね」

 確かにこんなところで手を抜いているようでは「筋書」にコラム欄など持てるわけがないか。

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