レビュー

編集だよりー 2007年6月13日編集だより

2007.06.13

小岩井忠道

 週末から週明けにかけて「聖徳太子の真実」(大山誠一編、平凡社、2003年)を読み返し、だいぶ前に買ったままにしていた「聖徳太子はいなかった」(谷沢永一著、新潮新書、2004年)も引っ張り出して読んでみた。

 毎日新聞4日夕刊文化面に載った「『聖徳太子非実在説』の10年 進む大山誠一教授の研究」という記事を、8日のレビュー欄で紹介したためである。

 この大問題は大山誠一氏が突然、火を付けたわけではなく、歴史学者たちの間では、かなり前から論議の対象になっていたということに、あらためて驚く。帝国大学や早稲田大学の教授を務めた久米邦武は、明治38年(1905年)に「聖徳太子実録(当初のタイトルは「上宮太子実録」)」を著し、日本書紀を含む古文書に描かれている聖徳太子像のいくつかを「『空談』にすぎないないと断じた」(「聖徳太子の真実」)。久米邦武は明治4年(1871年)に政府が派遣した岩倉使節団の一員として欧米を視察、帰国後に有名な『米欧回覧実記』を編集したことでも知られる人物だ。久米の手法で興味深い点は、聖徳太子について書かれた歴史資料の信頼度を厳密に評価したこととされている。文献類を甲種(確実)、乙種(半確実)、丙種(不確実)と“格付け”し、「日本書紀」は、半確実な資料「乙種」とされている。

 さらに、早稲田大学教授を務め、戦後、文化勲章を受章している津田左右吉は、1913年から33年にかけて「日本上代史研究」など4冊の著書を著し、「『憲法17条』も太子の真作ではなく、後の時代(「書紀」の編纂段階)における創作だと論じた」など、聖徳太子に関する「『書紀』の記述に対して多くの疑問点を指摘して、それらを史実ではないという議論を展開した」。(カッコ内は「聖徳太子の真実」からの引用)

 論議のポイントは、日本書紀によると621年に亡くなったとされる聖徳太子について書かれた資料に「日本書紀」より古いものがないという事実に行き着くように見える(古いとされている資料類はあるが、大山氏らの研究で次々に否定されている)。その「日本書紀」の完成は、720年。既に、聖徳太子が亡くなったとされる時期から、約100年もたっている時点で書かれた書だ。これだけでも、この問題の厄介さが想像できる。

 久米邦武、津田左右吉以降、聖徳太子実在の根拠とされた日本書紀以外の「歴史資料」が、ひとつひとつどのように検証されていったかについては、大山、谷沢両氏の本に詳細に書かれているので省略する。谷沢永一氏の次のような記述を紹介したい。

 「聖徳伝説に決定的な打撃をあたえたのは藤枝晃(『日本思想体系』2『聖徳太子集』に収められた『勝鬘経義疎』と題する解説、昭和50年)である。さらに質の上ではるかに延長拡大、考証研究の結論へ進み、聖徳伝説にトドメをさしたのが大山誠一である」(「聖徳太子はいなかった」)

 「聖徳太子がいなかったことは、とっくに学界の常識となっている」(同)とまで言われることについて、議論があることすら知らない人が多い事態が続いているのは、なぜなのか(編集者自身、4年前に「聖徳太子の真実」を読んで仰天するまで、全く知らなかった)。理由は、おそらく単純ではないと思われる。久米邦武は、「聖徳太子実録」の前に書いた別の論文が、国体論者などの猛烈な反発を招き、1892年に帝国大学教授を依願免職になっているし、津田左右吉も、「日本上代史研究」など4冊の著書の発売を政府から禁じられるという目に遭っている。

 明治から昭和10年代にかけて、歴史資料の中の聖徳太子に関する記述に敢然と異を唱えた歴史学者、それに対し真っ向から反発した歴史学者、実在しないと知っていたと思われるのに、明快に書くことを微妙に避けた民族学者…。何人かの例をあげて、谷沢氏は、「聖徳太子はいなかった」の中で次のように書いている。

 「昔の学者を阿呆であると思ったら間違う。ひょっとしたら現代、言論統制による画一化がはなはだしいのであるかも知れない」

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