レビュー

編集だよりー 2007年6月3日編集だより

2007.06.03

小岩井忠道

 物理学者、伏見康治氏が99歳を迎えたのを記念する「白寿を祝う会」に出席した。日常生活に何の支障もなさそうな立ち居振る舞いに驚く。

 物理学のような難しい話の取材は、昔から同僚に任せっきりだったので、言葉を交わしたことがある人は数えるほどだった。ただ、ほとんどが伏見氏と親しい人か、あるいはその家族、ということは会場の雰囲気でよく分かる。編集者は呼びかけ人の1人とたまたま親しかったので、出席させてもらっただけだ。

 氏が、日本学術会議会長を2期務められた後、参議院議員になられたころのことを思い出す。1984、5年だったはずだ。原子力基本法ができて30年ということで、議員会館を訪ねたことを覚えているから。この法律の2条に有名な「自主、民主、公開」の3原則が明記されている。その話を聞くのが、目的だった。

 当時、日本はウラン濃縮の国産化を目指し、動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)が、パイロットプラントの運転を開始(1982年)、その実績を踏まえて、原型プラントの建設に着手(1985年)しようという時期であった。ところが、濃縮に関する動燃事業団責任者の記者会見というのが、毎回、木で鼻をくくったようで、どうにもならない。「核不拡散にかかわる機微な情報だから答えられない」の一点張りである。

 当時、日本はウラン濃縮の国産化を目指し、動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)が、パイロットプラントの運転を開始(1982年)、その実績を踏まえて、原型プラントの建設に着手(1985年)しようという時期であった。ところが、濃縮に関する動燃事業団責任者の記者会見というのが、毎回、木で鼻をくくったようで、どうにもならない。「核不拡散にかかわる機微な情報だから答えられない」の一点張りである。

 伏見氏は、かつて茅誠司氏と一緒に日本学術会議で、原子力3原則の基となった提案をした方だ。原子力基本法の生みの親に、形骸化しつつあるとしか思えない原子力3原則「自主、民主、公開」の現状について聞いてみようと考えたわけだ。「原子力基本法ができて30年」ということなら、氏も話しやすいのでは、と。

 そこでの一言にすっかり感じ入ってしまった。

 「研究や技術開発で一番、難しいのは、それが本当にできるかできないかが、分からない時。できると分かってしまったら、後はたいしたことではない。核兵器は造れると皆知ってしまったのだから、造ろうと決断すれば、困難な話ではない。」

 核拡散につながる情報だから、といくら秘密にしようと努めたところで、何が何でも造ろうという国の核兵器開発を“技術的”に防ぐことはできない。そういう意味だと理解した。「動燃の担当者が、何から何まで隠そうといきがったところで、当人たちが思うほど大層な話ではない」。そう考えると、それまでの取材でのイライラも、だいぶ和らぐ気分になったものだ。

 話が、当時、日米間で進んでいた核融合研究協力に及んだ。断面が円形ではなくD型をしたダブレットⅢというトカマク型装置を使った研究に、日本政府が協力する話が具体化していた。この装置を所有するのは、ゼネラル・アトミックスという米国の企業だ。名前が思い浮かばないが、そこの副社長は日本人だった。その人の話になったら、「円地文子の小説『私も燃えている』のモデルだよ」と氏に教えられる。意外な話に驚くと、「小説では、自分も燃えてしまうが」。ニコリともせずに、ジョークが続いた。主人公は、研究中(核融合だったか?)の事故で死んでしまうのだという。

 この小説は、その後も読む機会はなかったが、これを書くにあたってインターネットで検索したら、若い原子物理学者と中年の女流作家の恋愛ものだった。

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