レビュー

編集だよりー 2007年6月1日編集だより

2007.06.01

小岩井忠道

 旧水戸藩主(水戸徳川家第13代当主)で、貴族院議長や日本赤十字社社長なども務めた、徳川圀順(くにゆき)公が、東京で高等教育を受ける郷里の師弟を支援するために東京・本所小梅町(現・墨田区向島)の邸内に創設した寄宿舎「水戸塾」の創立100周年記念塾友会総会(5月26日)に出席した。

 水戸塾はその後、財団法人「水戸育英会」となり、場所も小梅町から、渋谷区猿楽町に移り、さらに現在の世田谷区用賀の地に移ったが、引き続き、茨城県出身の大学生の寄宿舎として、存続している。これまでの100年間に世話になった人間は1,400人、うち1,000人が存命という。

 編集者は、昭和39年(1964年)に入舎し、翌年、渋谷区猿楽町から世田谷区用賀に移ってからも引き続きお世話になった。戦争直後からあまり変わってなかったと思われる渋谷の繁華街、恋文横町で食べた焼きそばの味もよく覚えている。

 記念パーティーで、当時、学監として寮の敷地内に住んでいた大先輩が、思い出を披露した。財団法人水戸育英会になった後も総裁を務めておられた圀順氏に、老朽化した寄宿舎を立て替える場所について相談に行った話である。世田谷区豪徳寺に候補地が見つかった。しかし、総裁が首を縦に振らない。豪徳寺というのは、そこにある寺に由来する地名で、その豪徳寺は、彦根藩主・井伊直弼が井伊家の菩提寺にした寺だったのである。井伊大老は、桜田門外で水戸浪士たちに殺されたが、その前の安政の大獄では、水戸藩側も手痛い目に遭っている。

 猿楽町の地を売って、用賀に今の寄宿舎を新築した際も、徳川家には大いに世話になった。旧寄宿舎の敷地のうち、テニスコートの土地は、財団法人「水戸育英会」の所有ではなく、徳川家のもの。土地を売却するにあたって、この土地を寄贈してもらったという。

 財団理事で元警視総監の仁平圀雄氏が、塾友を代表して乾杯の音頭をとった。編集者にとっては高校の先輩でもあり、14年前、同窓会総会(東京地区)の講演を頼みに行ったことがある。「私が警視庁の捜査4課長をしていた昭和44、5年当時、拳銃発砲事件は1件もなかった。昨今は日常茶飯事。昔は暴力団員10人に1丁あるかとみられていた拳銃が、いまや1人に1丁はあるのではないかと思う」。その時の講演での話を思い出す。14年前ですらこうだったのだから、いま市民を巻き込んだ拳銃発砲事件が頻発するのも当たり前なのだろう。

 「この寮に入れなかったら私の大学生活は、非常に困難なものになったはず」と仁平氏が、乾杯の前にまずは現総裁、徳川斉正氏(水戸徳川家第15代当主)に感謝の意を表す。徳川総裁は、「息子も高校2年生になった。大学生になったら、この寮に入れたいとずっと思っている。息子を入れるためには袖の下を使うことも辞さないつもりなので、役員の皆さん、新入舎生選考の際はよろしく」と、祝辞の中で皆を笑わせていた。

 水戸育英会の運営費用は、創立以来、寮生からの寮費のほかには、長年にわたる徳川家の支援と、OBからの寄付だけだ。いま、グローバル化が叫ばれる一方、「官主導ではなく民の活力を最大限生かす仕組み」や「公共利益を目指すNPO活動の支援」の必要を求める声が高まっている。しかし、このようなことは形こそ違え、昔も行われていたのではないだろうか。

 維新後、ほかの旧藩主が地元をはじめ社会にどのような貢献をしたのかは知らないが、水戸徳川家が、幕藩体制崩壊後に行った育英事業など、まさに、いま、その必要が叫ばれているNPOの役割と同じでは。税金ではできない、市場原理だけに任せていてもできない…。

 塾の先輩、同期生、後輩たちと話しながら、ふと考えた。

ページトップへ