レビュー

編集だよりー 2007年5月25日編集だより

2007.05.25

小岩井忠道

 前に勤めていた通信社の科学部OB・OG会が、銀座のレストランで開かれた。出席者は現役部員を含め約30人。科学記者というのは、昔も今も編集局の中で最も少数グループだろうから、出席率は相当なものだ。身内意識も大きいということだろう。

 記者はいくつになっても話し好きだ、と再認識した後、まだ話足りなさそうな先輩、後輩6人をなじみの店に案内、第2ラウンドとなる。

 上司としてすこぶる面倒見がよく、酒席にもよく付き合ってくれた元科学部長の先輩2人の話題は、どうしてもアポロ計画になる。映画にもなったアポロ13号(1970年)の時、ワシントン特派員だった年配の方の先輩が、ジョンソン宇宙センターで取材をしていて、例の事故に出くわす。燃料電池の原料となる液化酸素タンクが爆発した結果、大半の電源を失い、果たして、無事地球に帰ってくることができるか、という大変な話になってしまった。

 東京から急きょ、応援に飛んだのが、もう1人の先輩だったが、最初、孤軍奮闘していた先輩の方は、突然、両足が麻痺してほとんど動かなくなるという症状に見舞われてしまう。ワシントンに戻って即、入院となったのだが、手違いがあり予約の航空機に乗るため、ジョンソン宇宙センター近くのホテルからヒューストン国際空港まで自分でレンタカーを運転しなければならなくなる。アクセルとブレーキを踏み分けるくらいの神経機能と筋力は辛くも残っていたというが、文字通り「決死の思いだった」とのこと。この辺になると話は簡単には終わらない。

 この先輩が、最も印象に残るというアポロ13号取材の場面を話してくれた。ある時の記者会見で1人の記者が、単刀直入に質問したという。「乗員たちは毒針を持っているのか」。この時の広報担当者の凍り付いたような表情…。ようやく、「その点に関する情報は持っていない」と答えたものの、記者たちは皆、その表情から察したというのだ。宇宙飛行士たちが、自殺のための手段を持っているに違いない、と。

 アポロ宇宙船を月まで到達させたロケットは、サターンⅴ型だった。「いやあ、あの打ち上げの時の音と振動のすさまじさときたら…」。こういう話も残りの人間は、ただ耳を傾けるだけだ。サターンⅴが飛び立つところなど、テレビ以外で見た者など2人以外いないから。

 全長110メートルものサターンロケットの組み立て棟は、次のシャトル時代になっても引き続き使われている。「棟内の最上部には雲ができる」とケネディ宇宙センター広報担当者の説明に、仰天した記憶が編集者にもある。

 宇宙航空研究開発機構・宇宙基幹システム本部長、河内山治朗氏のインタビュー記事「高い信頼性と低コストのロケット目指し」の掲載が始まった。「自分で立って、自分で飛べるロケットを開発したい」という意味が、すぐには理解できなかった。H-Ⅱロケットは、自分で立つこともできず、自分で飛び上がることもできない。ブースターが付いているから、その助けで発射台に据え付けることも、発射することもできた、というわけだ。

 H-ⅡAになって、仮にブースターがなかったとしても、自分で発射台に立てるような形には進化したのだが、まだ依然としてブースターなしでは、飛び立てない、というのである。次の世代のロケットは、ブースターなしのロケット本体(コアロケット)だけで、飛び立てるようなロケットにしたい、という意味だった。

 H-ⅡAロケットも、米国のスペースシャトルも、ブースターを両脇に抱えて、飛び立つ。しかし、あの巨大なサターン・ロケットには、ブースターなどなかった。意外なことに「自分で立って、自分で飛べた」ロケットから、ブースターを抱えるタイプのロケットに切り替わったときに、どういう技術的な議論がなされたか、きちんと書かれた文書はない、と河内山治朗氏は言う。

 昔のデザイン(設計)が見直されるというのは、芸術やファッションの世界に限らない、というところが、何とも面白い。

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