政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の会長などを務め、政府に100以上もの提言をしてきた尾身茂氏(結核予防会理事長)ら専門家有志3人が9月14日、日本記者クラブ(東京都千代田区)で記者会見し、3年半余りのさまざまな活動を振り返った。
この日までにコロナ対策に関する政府関係の役職をすべて退任した尾身氏は「100年に1度の危機の中で(感染症対策の)経験を持つ人間が信じたことを言わないと歴史の審判に耐えられないと思った」「唯一、絶対の正解がない中で、できる限り科学的に合理性がある提言を試みた」などと語った。
政府は感染症対策の司令塔組織として「内閣感染症危機管理統括庁」を9月1日発足させ、「新型インフルエンザ等対策推進会議」の議長を務めた尾身氏を退任させるなど、メンバーや体制を一新した。現在流行拡大の「第9波」を迎えている最中の退任に、同氏は「第9波はまだピークに達していない。医療にかなりの負荷がかかっている」と懸念を示しながらも新体制に期待を寄せている。
会見に同席した川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長は小児科医の経験から、子どもに対する配慮や感染防止の重要性を指摘。東京大学医科学研究所の武藤香織教授は医療社会学者の立場から、長いコロナ禍で偏見や差別にさらされた人が少なくなかったことに触れて、パンデミック(世界的大流行)時の人権擁護の大切さを訴えた。
2020年1月に新型コロナウイルスが国内で初確認されて以来、政府に助言、提言する専門家集団を率いてきた尾身氏。専門家の意見や提言と政府の政治判断との間には時に乖離(かいり)もあった。同氏らは政府の厳しい行動制限に科学的根拠を与えたとして時に誹謗(ひぼう)中傷も浴びた。会見を通じ3人の表情からは専門家として科学に基づいて行動、尽力してきたという自負のほか、激務から解放された安堵感もうかがえた。
社会経済負荷を最小限に、感染防止効果を最大限に
尾身氏は自治医科大学の1期生で1978年卒。僻地(へきち)・地域医療に従事した後、同大学助手などを経て90年代から世界保健機関(WHO)西太平洋地域事務局で感染症対策を担当し、2003年に中国などで重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行した時は事務局長を務めた。20年から新型コロナウイルス感染症対策分科会長を務めてきた。
同氏は安倍晋三元首相(故人)や菅義偉前首相の記者会見に同席し、「政府の代弁者」と批判を受ける時もあった。一方、時に国会などで政府方針に対し率直な意見を述べ、厳しい注文を付けた。特に、国内旅行の費用を補助するGoToトラベルや東京五輪・パラリンピックを巡っては、尾身氏が最もこだわり重視してきた専門家と政治家のあるべき役割分担のイメージが崩れた時期でもあった。一部メディアでは「政府部内から『尾身を黙らせろ』との声が上がった」とも報じられた。その頃の同氏の苦悩は深かったとみられる。
「私たちは分科会も既に卒業しているので、記者会見でお話しするのは最後になります」。会見で尾身氏はこう前置きして用意した紙を読みながら所感を語り始めた。「今回の感染症対策は私が経験した中で最も難しかった。背景としてはウイルス側の要因に加え、人間や社会側の要因もあった。感染症対策に唯一、絶対の正解はない中で当初から社会経済への負荷を最小限にし、感染拡大防止効果を最大限にすることを目標にした」。政府とやり取りする中での具体的対策となると、一つの正解を見つけるのは極めて困難だったという。それでも「できる限り科学的に合理性があり、多くの人に理解、納得してもらうような提言を作ることを試みた」。
この試みが簡単でなかったのは、提言の根拠となるデータが不足していたこと、社会全体の共通認識が得られにくくなっていたこと、そして提言の内容や根拠が社会に伝わりにくくなったことの3つを挙げた。パンデミック初期は人々の未知ウイルスに対する不安もあり、「3密回避」などの行動制限に対してある程度、社会の共通認識はあった。新型コロナウイルスに関して当初は情報が限られていたが、次第に多くなった。そうなると人々の立場や価値観は多様になり、求められる対策に対する合意は得られにくくなったという。
専門家と政治家の役割分担、見えてきた課題
感染症対策と経済の再建との間で揺れた政府。そうした政府と専門家集団との危機感との認識のずれがあったのは間違いない。両者の認識の乖離は2020年夏に政府が始めたGoToトラベルを巡って顕在化した。
同年7月の参院予算委員会で尾身氏は「今の段階で全国的なキャンペーンという時期ではないと思います」と明言している。尾身氏が懸念した通り、同事業が始まる時期と合わせるように感染は全国に拡大していった。両者の意見の乖離、違いは21年夏に結局無観客で行われた東京五輪・パラリンピックの開催方式を巡っても見られた。
こうした経緯について尾身氏は「今回政府と専門家の役割分担について課題が見えてきた」と冷静な表現を使った。そして「政府と専門家がいつも同じ意見であるとは限らない。意見が異なることが時々あってもそれはむしろ健全で、これからの課題は専門家の提言を採用しない場合はその理由を(政府が)しっかり説明することで、それにより意思決定プロセスが明確になる」と述べた。
政治家や担当官僚とは立場は異なっても「この危機を何とか乗り越えよう」という思いは共通だったと強調している。
用意した所感の最後に「市民の皆さんにはそれぞれ大変なご苦労があった中で『接触8割削減』や『3密回避』などの感染対策に協力していただき心よりお礼をしたい」「感染症に限らず日本社会は今後もさまざまな苦難に直面することがあるだろう。その際に専門家の知見を社会でどのように活用していくのか、私たちの試みが反省も踏まえて今後のより良い対策に生かされることを祈念している」と結んだ。
やるべきことはやった経験を次世代に
3年半以上のコロナ禍を通じて尾身氏の「補佐役」だった岡部氏は小児科の出身だ。東京慈恵医科大学を卒業後、小児科医として臨床経験を積んだ。一般外来や乳児健診などに携わりながら感染症学やウイルス学の知見を深め、尾身氏より前にWHOの西太平洋地域事務局に入り、伝染性疾患予防対策課長を務めた。SARSが発生した2002年当時は、国立感染症研究所で感染症情報センター長として対策に必要な情報収集作業の前面に立っている。
岡部氏は2020年4月に政府が初めて出した緊急事態宣言について「最初は(強い行動制限に)慎重な姿勢だったが、医療の現場の友人から『重症患者や中等症の患者さんがどんどん入院してきて、このままでは医療の現場が危なくなる』と言われ、全体の医療が崩れると思って宣言に賛成した。それでもそういう形でいいのか自問自答を続けた」と振り返った。
「この病気の患者の中心は大人で、高齢者は特にリスクが高かった。専門会議のメンバーや対策に関わる人も大人の医療に関わる人が多く、対策も大人社会中心になった。このために子どもへの配慮に乏しい状況がしばしばあった。それでも(コロナ禍の一連の会議の)後半から入ってもらった小児科医による提言を生かした。子どもへの配慮もできるようになった」。子どもへの対策をどう考えるかは今後も課題として残ると訴えている。
同氏はさらに「対策に関して多様な考え方による議論が行われた。ベストアンサーがない中で多様なメンバーが誠心誠意やったとは思う。その結果、日本の死者数、致死率は高齢化社会にあっても世界的にも低く抑えられたのはいいことだったが、経済、教育の面で、また差別の問題など社会に影響が及んだ」。
所感の最後に「私たちはやるべきことはやったという思いはあるが、決して完璧ではなかった。今回の経験が次の世代(の研究者・担当者)に引き継がれて次のパンデミックに備えていくことが必要だ」と述べている。
差別や偏見の問題を改めて指摘
続いてマイクを持った武藤氏は東京大学大学院医学系研究科で博士号を取得。研究テーマは社会科学と先端医科学の相互作用で、米ブラウン大学などを経て2007年東京大学医科学研究准教授、13年から現職。医療社会学者の立場から尾身氏、岡部氏らとコロナ禍の当初から専門家会議や分科会に加わり、対策の倫理面などで独自の問題意識から積極的に発言、発信してきた。
「入ってくる情報が制限されて短時間で政策決定しなくてはならない現場だった。だからこそ生命倫理や公衆衛生倫理の原則や概念に立ち返って考えることが大事だと思った」。政策によって負の影響を受ける人、声を上げられない人の存在をできる限り想像して伝えることも役割の一つだったという。
現在は多くの人が新型コロナウイルスに感染し「ウィズ・コロナ」の社会になっている。しかし、感染者がまだ少なく、有名な芸能人が死亡するといったニュースが伝えられた頃は漫然とした不安が社会に広がり、「感染源」として感染者や濃厚接触者に対する目も厳しかった。流行初期だった2020年の初めごろ、多くの医療機関はさまざまな面で暗中模索の状況であり、院内感染や施設内感染に対する防止策は難しい時期だった。
「院内感染を起こしてしまったことに対する多くの批判が医療従事者やケア提供者らに出て、それが偏見や差別の原因になった。遊興施設でクラスターが発生するとこれも厳しい批判が出た」。武藤氏はコロナ禍の当初に見られた差別や偏見の問題を改めて強調した。
2020年7月に政府の新たな分科会ができた時に、武藤氏は差別や偏見に関する作業部会を作るよう尾身氏に要請した。その後報告書が出て新型インフルエンザ等特別措置法が改正され、同13条に国や地方公共団体の責務として「知識の普及や差別の実態把握、相談支援や差別や偏見防止のための啓発」が盛り込まれた。
「今後新たな感染症が流行した時は当初からこの法律の条文(13条)に基づいて活動が始まる。メディアの皆さんにも十分理解してもらった上で報道してもらいたい」。直接は言及しなかったが、コロナ禍のメディアの報道の仕方に反省点はなかったかどうかも検証するよう暗に求めた。
武藤氏は最後に「人工呼吸器や病床が不足した時の優先順位の決め方や、どんな時に面会やみとりの制限が正当化できるのかなど、難しい判断が求められた。多くの場合その判断は現場任せにされた。最終判断は地域や医療機関で異なるが、どのようなことを考慮して難しい判断をするかは国も(基準などを)早めに示すべきだった」と指摘し、今後の課題とした。
「第9波、冬にかけて気がかり」
尾身氏、岡部氏、武藤氏の3人が一通り、コロナ禍の3年半余りを振り返った後、大勢詰めかけた記者やオンラインで参加した記者らとの質疑応答に入った。
新型コロナウイルス感染症の感染法上の位置付けが季節性インフルエンザと同じ5類に移行してから4カ月以上が経過した。感染状況に関する公表が感染者の「全数把握」から週1回、全国約5000の定点医療機関からの「定点把握」に変わり、「流行状況」は分かりにくくなっているが、専門家は「明らかに流行の第9波だ」との見方で一致している。
現在の感染状況について問われた尾身氏は「第9波はピークに達していない。まだ多くの地域で感染者が増えている。医療の現場もかなり負荷がかかっている。冬にかけて気がかりだ」と述べた。そして「この病気は若い人や体力のある人が感染してもほとんど重症化しないが、(若い人でも)後遺症の問題がある。高齢者や基礎疾患がある人など、致死率が低いにも関わらず(感染者数は多いために)死亡者が増えている。コロナはまだ終わったわけではなく、しばらく続くので社会活動を維持しながら感染対策をとっていくことが大切だ」と強調している。
岡部氏はまだ感染の波が続いていることを前提に「我々がこのような会見をするのは我々の役割に区切りが付いたということであって、新型コロナが終わったと受け止めないでほしい」「5類になったからといってコロナという感染症がもう大丈夫となった訳ではない」と釘を刺した。
脅迫を受けながら「当然やるべき仕事だった」
「3年半余りの間、前面に出て発信してきたことで脅迫や誹謗中傷にもさらされてきたと思うが、提言を出し続けてきたモチベーションや思いはどうだったのか」。記者にこう問われて尾身氏は「多くのメンバーは感染症対策に直接関わってきた。(コロナ禍という)この大事な時に、また全ての人々が大変な思いをして不安があった時に、感染症対策の経験がある者が信じたことや言うべきことを言わないのでは歴史の審判に耐えられない、責任を果たせないという思いが当初から全員にあった。経験を持つ者が当然やるべき仕事と思っていた」。
「人的被害はなかったものの段ボール1箱ぐらいの手紙が届き、多くは批判の内容だった」という岡部氏は「やるしかないだろうと思った。他のメンバーとともに誠心誠意やってきた」と語った。武藤氏は「コロナ対策をめぐるさまざまな議論から下りるのは無責任だと思った」と述べている。
「コロナとの共存」「ウィズ・コロナ」を前提とした「新しい日常は確立しつつあるか」との質問に武藤氏は「テレワークの推進など確立しつつある面もあるが、(感染防止のために混雑したところには)なるべく一斉にどこかに行かないといった注意点ではコロナ前に戻っている」と指摘した。
尾身氏は「多くの日本の方々がいろいろ大変な思いをし、辛抱した。その結果、累積死亡者も欧米より少なかった。この間日本社会のいい面もあったし課題も出てきた。感染症のパンデミックは社会、経済の全てを巻き込み、オンラインの普及が進んだ半面、差別などの問題も生じた。さまざまな面で影響が出ることが今回分かった。今回の経験を『のど元過ぎれば』とせずに、それぞれの人がそれぞれの立場から振り返って今後どうすべきかを考える良い機会だった」。
まだ続くコロナ禍、しっかりした検証を
日本国内では現時点で3000万人以上が感染し、欧米などよりは少なかったものの7万5000人以上が既に亡くなっている。厚生労働省は9月15日、全国約5000の定点医療機関から4~10日の1週間に報告された感染者数は計9万9744人で、1医療機関当たり20.19人だったと発表した。前週比はほぼ横ばいで第9波が続いている。国内ではオミクロン株派生型の通称「エリス」と呼ばれる「EG.5.1」の検出割合が増え、全体の過半数を超えている。コロナ禍は明らかにまだ続いている。
新型インフルエンザ等対策推進会議の議長は、尾身氏から国立成育医療研究センターの五十嵐隆理事長に代わった。尾身氏が長く会長を務めてきた感染症対策分科会や基本的対処方針分科会も廃止された。5類移行後も新型コロナウイルスは勢い失わず、今後の新型コロナを巡る医療体制に対する懸念や不安の声も少なくない。
記者からは「(尾身氏らが退任して)新体制移行により感染防止対策に問題はないと思うか」との質問も出された。尾身氏らは「しっかりやってもらえると信じているし、期待している」とエールを送った。その一方で「多くの資料が残っている。これまで対策に関わってきた者として支援は惜しまない」などと話し、今後は新しい体制のメンバーが中心になり、時間をかけてこれまでのコロナ対策の検証をしっかり行うことを求めた。
関連リンク
- 厚生労働省「新型コロナウイルス感染症の国内発生状況等について」
- 厚生労働省「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の発生状況等について」