レポート

シリーズ「日本の安全と科学技術」ー 「大震災と科学者(技術者)の倫理(エートス)」第1回「“想定外”とは、安全設計の意識がないこと」

2011.08.25

阿部博之 氏 / 元東北大学 総長 元総合科学技術会議 議員

阿部博之 氏 元東北大学 総長 元総合科学技術会議 議員
阿部博之 氏 元東北大学 総長 元総合科学技術会議 議員

 今回は『大震災と科学者(技術者)の倫理(エートス)』という、少し大きい題目にさせていただきました。ここで言う「技術者」は、例えば安全設計とか健全性保持とかでリーダーシップを取っているような高等教育を受けた、米国でいう「エンジニア」のつもりで書いてあります。以下「科学者」というときには、この「技術者」も含めることにさせていただきますので、ご了承ください。

科学者の責任

 さて、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、地元だけでなく、世界に大きな衝撃を与えました。いろいろな人が「責任云々…」を言い始めておりますが、当然、事業者の東京電力に責任がありますし、これまで推進してきた歴代の内閣を含めた政府、関連府省の担当者、さらには原子力委員会や原子力安全委員会などの方々の責任についても、言われ出しています。

 私が強く感じていることは、技術者も含めた「科学者の責任」についてです。とくに「倫理感の希薄化」ということを今日は、お話しさせていただきます。

 まず、どういうことかと言うと、東京電力や原子力安全・保安院、さらに政府の担当者、閣僚の方の発言というのは、自分だけで何かを言っているわけではなくて、科学者である専門家にいろいろな意見を聞き、それを参考にして発言をされているわけです。しかし「これだけの事故が起きる前に、科学者(集団)としてきちんとした説明をしていたのかどうか」ということが、まず冒頭に浮かぶわけです。

 ところが最近の新聞に、浜岡原子力発電所(静岡県)の運転中止は「菅首相が専門家などに相談しないで決めた」ということが載っていました。私は「それは間違いではないか」と思いますが、もし仮にそういうことであれば、非常に由々しきことです。少なくとも間接的には専門家の意見を聞いているとは思いますが、この際、日本における「科学アドバイザーの政策決定に対する役割」を考え直す必要があるのではないでしょうか。

 「科学者の責任」としては、大学の原子力工学を含め、いろいろなところが批判の対象になっています。私は大学の機械工学科で材料力学を仕事にしていましたが、原子力や原発を研究の対象にしたことはありません。しかし、原発には原子力工学の卒業生だけではなく機械、電気、材料、建設など、いろいろな人が入っています。例えば電力会社には、私の講義を聞いて、原子力担当の役員をされている人もいました。日立や東芝、三菱重工に入った人にも多分、私の授業を受けた人が複数いるかと思います。ですから、私の責任もこの中に含まれます。

みんな甘かった

 「超巨大地震」というのは、マグニチュード9.0を超える規模の地震を言うそうですが、なぜその対策ができなかったのか。一言でいえば「みんな甘かった」。では、なぜ甘かったのか。

 ちょっと復習いたしますと、福島第一原子力発電所とよく比較されるものに東北電力の女川原子力発電所(宮城県)、日本原子力発電の東海第二原子力発電所(茨城県)があります。大きい津波の可能性や電源喪失の恐れは、実は内外から指摘されていて、東京電力も含めて3社とも認識しているわけです。社長さんが認識していたかどうか分かりませんが、少なくともきちんとしたエンジニアはみんな認識していたに違いありません。

 しかし大震災による結果には、ずいぶん差が出ました。東海第二では、津波の予想が甘いということで、防波堤のかさ上げ工事をしていました。報道によると、工事が終わった所は被害がなく、工事途中のかさ上げができていない所では被害があったといいます。また女川のほうは、津波の予想値以上の高い場所に建設していたので、ある程度の余裕を持っていました。そのため女川も大きい被害はなかったのです。しかし、女川と東海第二が十分で、福島第一は不十分ということではありません。3社とも不十分でしたが、ものすごく明暗が分かれてしまいました。

安全設計に“想定外”はない

 これがどうして起きたのか。まずは、科学者の「責任感」と「説得力」についてです。

 原子力発電所の原子炉圧力容器の安全設計や健全性の確保などについては、緊急炉心冷却装置や非常用電源などの機器を含めて、世界的にも長年検討が行われてきました。最近、「想定外」ということがよく出てきます。しかし、地震や津波の予測には“想定外”はありますが、安全設計に“想定外”はあってはいけないのです。例えば100の力がかかるときに、100を超えたら壊れるように設計することは、特殊な場合を除いてありません。必ずオーバーローディング(過負荷)を考慮し、さらに不確定に予期せぬ条件がいろいろと加わることを考えて、1以上のかなり大きな数字を「安全率」として用意します。それを基に設計するわけですが、安全率が小さいと危険で、大きいと安全だというのではなく、不確定な部分をどれだけ把握しているか—分かりやすく言えば「想定外のことをいかに考慮するか」というのが安全設計なのです。ですから「想定外だから壊れた」というのでは、「まったく安全設計の知識がない」ということになります。

 そういう状況を踏まえた上でお話ししますと、安全設計については、実は、先ほどの3社(福島第一原発、女川原発、東海第二原発)には結果として差がありました。企業によってどうして濃淡が出てきたのか、関心のあるところです。

原発事故の背景にある“科学技術意識”

 ここに『日本人の法意識』(川島武宜、1967年、岩波新書)があります。川島さんは東大の民法の有名な先生で、大変面白いことが書いてあります。

 日本には、西欧の法体系が明治時代に入ってきました。当時の日本人の社会通念、生活心情といったものとは著しく異なっているにもかかわらず西欧の法体系を入れたのです。それは、江戸幕府から引き継いだ欧米との不平等条約を乗り越えるために、「日本は西欧のスタンダードで、ちゃんとした法体系をつくっています」ということを示す必要があったからだそうです。

 ところが実際は、かなり日本人の意識が違っていました。法律で黒白をつけること、きちんと守ることを、日本人の社会は必ずしも好まない場合がある。そのために共同体が気まずくなったり、人間関係が悪くなったりするよりは、「和を重視する」ということがしばしばあるわけです。そうした中で、西欧の法体系を日本にどうやって根づかせていくか。現在でも依然としてそうしたギャップがあることを、分かりやすく書いてあります。

 これを読んで思ったのは、日本人科学者の科学技術意識あるいは安全意識が、今回の大きい事故に到達した基本的背景にあるのではないか、ということです。特にトップとか経営者が、短期的な成果やコスト、選択と集中を重要視すれば、部下である技術者(グループ)が巨額の費用を要するような防波堤のかさ上げを提案することは非常に難しい。そうした中で、どうしたらいいのか。大きな問題です。

あり得ない「100%の安全」

 では、日本型のやり方が全部悪いかというと、必ずしもそうとは言えません。日本では、企業で言えば、社員の中には、東京電力にも優秀な学生が多数入社していると思いますが、選抜されて上級管理職になり、さらに役員になるという段階を経ていきます。このことは新入社員に目標を与えることにもなり、企業の活力に結びつきます。しかしその中で、多額の費用を要する事項について、安全性に対する基本的な原理原則を上司に主張していくことは、非常に難しいことです。特にいつ発生するか分からない自然現象に対しては、容易ではありません。日本の場合は総合職を重視する傾向があり、「専門性」ということには甘くなっています。エンジニアが専門性をきちんと踏まえた上で、どうやって安全性の議論ができる空気をつくっていくのか。企業、組織によって濃淡はありますが、大きな課題ではないかと思います。

 特に、原子力に対して「100%の安全」ということが、なぜ出てきたのか。原発反対の人たちが厳しく「これでも安全ではない」「ここが危険だ」などと追及していくと、政府も電力会社もメーカーも、だんだん「100%の安全」というところに引きずり込まれてしまったのかも知れません。

 ところが「100%の安全」はあり得ません。とくに工学の世界ではないのです。しかし「100%安全」に近づける努力は大切です。原発建設から何十年もたっているわけですから、この間の設備の経年劣化やそれに対する技術の進歩、あるいは過去の津波に関するデータなどといった新しい知識や技術を踏まえて、企業も政府も「100%の安全」に近づける努力をしなければならなかったのです。自分たちで「100%安全だ」と思ってしまうと、そういう努力は必要ないですよね。大変危険なことです。

 専門性に関しての倫理観、安全率に対する考え方などは、大学を卒業してから今でも、皆さんは持っているし、覚えてもいるはずです。しかし、それを実行できていないところに、日本の科学者、技術者および集団の課題があるのではないか。それをどう克服していくのか。企業で言うなら、役員会で「安全性をどうすれば100%により近づけられるか」という問題を、施設の経年変化のデータなどを見ながら喧々囂々(けんけんごうごう)議論する雰囲気があれば、方針決定を下す社長さんの発言も変わってくるのではないかと思います。

科学者コミュニティーからの発言

 「科学者コミュニティーへの期待」について。吉川弘之先生(科学技術振興機構研究戦略開発センター長、元東京大学総長)も『福島原子力発電所事故の対応における科学者の役割』という文書を発表されています(4月28日)。それと重複するところが結構ありますが、視点が少し違いますので、お話しさせていただきます。

 原子力発電所は現在、世界に400基以上(注:436基、日本原子力産業協会・2011年1月現在)あります。これを今、急にゼロにすることはあり得ません。仮に「ゼロにすべきだ」という意見があってもです。福島原発事故のショックで、日本だけでなく世界中で「原発をどうしたらいいか」といった議論が出始めているわけですが、その際の「原発を存続させる場合の条件」についても科学的な説明が求められています。政府や東京電力の言うことは報道されていますが、「では、科学的判断はどうなのですか」というのが、一般市民や被災住民の聞きたいことだと思います。放射線量の許容値についても「政府はこう言っているが、本当はどうなのですか」と。

 ところが、これにも日本の科学者コミュニティーはなかなか発言しません。これは個人の発言というよりも科学者コミュニティーとしての日本学術会議、あるいは各学会などの見解のことで、現時点での統一見解を発することが重要です。3年後、5年後には今あるデータの質や量に違いが出てきて、見解の内容も違ってくる可能性はありますが、かといって、いつまでも待ってはいられません。大変難しいことですが、統一見解に向けての努力が少なくとも必要です。

「アカウンタビリティ」と「レスポンシビリティ」

 哲学者の今道友信先生(注:1922年生まれ。東京大学名誉教授。科学技術社会における「生圏倫理学(エコエティカ)」を提唱する)は「accountability(アカウンタビリティ)」と「responsibility(レスポンシビリティ)」ということを述べておられます。これらは、ともに「責任」の意味ですが、「アカウンタビリティ」というのは、今までに起きたことに対する「説明責任」のことです。ところが、これには未来志向のニュアンスが入っていないのだそうです。未来志向が入っているのは「レスポンスビリティ」です。この両方の「責任」について、科学者コミュニティーが発言していく必要があると思います。

 また科学者コミュニティーには、世界に対する「説得力」も必要です。これは「説明」でもいいのですが、これまでの政府、事業関係者(研究者)などによるコミッティーとは別の、独立したメンバーによる調査・検証がないと、世界は必ずしも信用してくれません。さらに、外国のアカデミーとの協働も重要です。分からないこと、つまり事故に対する世界の科学者の共通理解、共通認識をつくっていかなければならない責任が日本にあります。その中では、原発事故に対する科学者の責任を明確にすることです。日本学術会議などのコミュニティーは、もこうした視点に立ち、努力をしていくことが期待されているのです。

阿部博之 氏 元東北大学 総長 元総合科学技術会議 議員
阿部博之 氏
(あべ ひろゆき)

阿部博之(あべ ひろゆき) 氏のプロフィール
東京都生まれ、宮城県仙台第二高校卒。1959年東北大学工学部卒、日本電気株式会社入社(62年まで)。67年東北大学大学院工学研究科機械工学専攻博士課程修了、工学博士。77年東北大学工学部教授、93年東北大学工学部長・工学研究科長、96年東北大学総長、2002年東北大学名誉教授。03年1月-07年1月、総合科学技術会議議員。07年1月科学技術振興機構顧問、10年1月同機構知的財産戦略センター長。専門は機械工学、材料力学、固体力学。

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