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文理の厚い壁を越えて融合を達成する道を探る(信原幸弘 氏 / 東京大学大学院総合文化研究科教授)

2020.01.23

信原幸弘 氏 / 東京大学大学院総合文化研究科教授

信原幸弘 氏
信原幸弘 氏

 文理融合が叫ばれ、自然科学の研究にも人文社会科学との連携が必要だと言われる。実際その通りだろう。しかし、文理を隔てる壁は依然としてあまりにも厚い。私が所属する東京大学の総合文化研究科は文系と理系の多くの教員を擁し、早くから学際性を声高に唱えてきたが、今でも文系と理系が截然(せつぜん)と区別され、文理融合はなかなか進まない。

 なぜ文理の壁はこれほどにまで厚いのだろうか。その壁を乗り越えて、文理融合を真に達成する道はあるのだろうか。

壁の正体

 文理の壁だけではなく、今日の極度に専門化した諸学問の間には、至る所に壁があるようにみえる。少しでも専門が異なれば、お互いを理解するのは非常に困難であり、「隣は何する人ぞ」とつぶやきたくなる。学問というのは本質的に専門化し、自閉化する傾向があるようだ。しかし、文理の間には、専門化した諸学問の間の壁とは異なるもっと根源的な壁があるようにみえる。それは文系人間と理系人間のメンタリティの違いに起因するような壁である。

 この壁の正体はいったい何であろうか。文理の壁はさまざまな仕方で特徴づけることができるだろうが、ここでは特に「法則」と「物語」の対比に焦点を合わせてみたい。理系の学問、すなわち自然科学は、事物の法則性を探究し、それに基づいて事物の制御・操作を目指す。事物のメカニズムや計算のアルゴリズムも、広い意味で法則的なものである。今日では、自然科学は物質や生命だけではなく、心をもその探究の対象としているが、その際、心のメカニズムや情報処理アルゴリズムの解明を目標としている。つまり、心をも法則的に捉え、機械論的に説明しようとするのである。

 それに対して、文系の学問、すなわち人文社会科学は、人間やその社会を研究の対象として、それらを物語的に解釈し、それらとの物語的な交わりを目指す。もちろん、人文社会科学は人間や社会の法則性も探究するが、物語性の探究こそがその本来の課題であり、核心である。物語は法則の呪縛に抗して生成発展し、いかなる法則化の試みにも屈しない。それは人間の繊細な情動を糧にして、臨機応変に自らを紡ぎ出し続ける。このような人間や社会の物語性を支えているのは、もちろん人間における心の物語性である。

自然科学化する人文社会科学

 自然科学は法則性を求め、人文社会科学は物語性を求める。これが文理を隔てる厚い壁の正体である。しかし、このような根源的な壁があるとすれば、文理の融合は原理的に不可能ではないだろうか。そのような壁を乗り越えて文理を融合する道はあるのだろうか。あるとすれば、どんな融合になるのだろうか。

 現在、文理の融合が多少なりとも進んでいるようにみえる領域がある。特に心の領域がそうである。心は伝統的に心理学で研究されてきたが、現在では、脳科学において盛んに研究され、斬新な成果が相次いでいる。しかも心理学と脳科学がそれぞれ別々に心の探究を行っているというよりも、両者が深く連携して探究を行っている。これは心理学という文系学問と脳科学という理系学問の融合のようにみえる。

 しかし、実際はそうではない。それは単に心理学が自然科学化しただけのことであり、文系の心理学が理系の脳科学と融合したということではない。心理学は元々心の物語性を探究するよりも、むしろ心の法則性を探究する傾向が強い。心理現象の中に心理法則を見出そうとするのである。それゆえ、心理学は理系的色彩が強いのだが、脳科学と連携することによって、その色彩をさらに強め、ほとんど理系的学問になってしまった。数年前、科研費基盤研究B「道徳認知と社会的認知の統合的哲学研究」で社会心理学者や脳科学者と共同研究を行ったが、その時心理学がもっぱら心理法則(おおむね統計的な法則)を探究する理系的な学問であることを強く印象づけられた。今日では、少なくとも一部の心理学は自然科学である。

 心理学がこのように自然科学化することで脳科学と融合したということであれば、それは理系の学問の間の融合に過ぎず、真の意味での文理融合とは言えないだろう。真の文理融合として求められるのは、法則性の探究と物語性の探究の融合である。

東京大学大学院総合文化研究科教授 信原幸弘 氏
東京大学大学院総合文化研究科教授 信原幸弘 氏

階層的人間観

 法則性と物語性の根源的な違いを考えれば、文理融合は確かに極めて困難なように思われるが、それでもなお融合の道はあるだろうか。ここで鍵となるのが人間を階層的な存在とする見方である。人間は、低次の階層では、原子や分子の物理的・化学的な活動からなる物質的存在であり、もう少し高次の階層では、他の動植物と同様の生物的活動からなる生命的存在であり、さらに高次の階層では、人間独自の心理的活動からなる心的存在である。もちろん、今挙げた階層の中でもさらに細分化が可能である。これらの階層はそれぞれ独自の秩序を形成しており、高次の階層の秩序を低次の階層の秩序で説明することは不可能である。

 例えば、人間の心には自由意志の働きがある。しかし、人間を物質的階層や生命的階層で見れば、そこには自由意志は見いだせない。それらの階層では物質や生命の法則的秩序が成立しているのに対し、自由意志は確率的な法則も含めていかなる法則とも両立しない。しかし、自由意志は心の階層には厳然と存在する。心は非法則的な物語的秩序からなる階層を形成し、自由意志はこの物語的秩序とは両立する。繊細な情動の動きを反映しつつ、自由意志によってなされる意思決定や行動こそ、人間の物語性の核心である。

 人間は異なる秩序を有する複数の階層からなる多層的存在である。高次の階層のあり方は低次の階層のあり方からは説明されず、それゆえ高次階層は低次階層に還元不可能である。しかし、階層の間には「付随性」と呼ばれる緊密な関係がある。低次の階層のあり方が決まれば、高次の階層のあり方も決まるという意味で、高次階層は低次階層に付随する。あらゆる原子や分子のあり方が決まれば、身体や脳のあり方も決まり、心のあり方も決まるのである。

 人間を構成する高次の階層は低次の階層に還元されないが、それに付随する。この還元不可能性と付随性によって特徴づけられる階層的存在として人間を捉えれば、文理の真の融合の道が開けてくるように思われる。

真の文理融合の道

 自然科学は低次の法則的階層を探究し、人文社会科学は高次の物語的階層を探究する。物語的秩序は法則的秩序に還元できないから、物語的階層は法則的階層とは別に独自に探究される必要がある。しかし、両者の間には付随性がある。物語的階層のあり方は法則的階層のあり方によって決定されている。従って法則的階層を探究することは物語的階層を探究することではないとはいえ、その「決定基盤」を探究することではある。法則的階層の探究を単にその階層の探究と見るだけではなく、物語的階層の決定基盤の探究と見ること、そして逆に物語的階層の探究を法則的階層によって決定されている階層の探究と見ること、これこそが真の文理融合の道だと思われる。

 この文理融合は文系の理系への同化ではない。物語性が法則性に還元できない以上、そのような同化は不可能である。それは、物語性が法則性によって還元的に説明できないことを認めたうえで、それでも物語性の決定基盤を法則的に解明しようとする融合である。これはかなり緩い融合であるが、物語の基底で働く物質や情報のあり方を知らせることで、物語の理解を豊かにするとともに、物質や情報のある種のあり方によって物語を可能になることを知らせることで、物質や情報の理解をも豊かにする。

 このような文理融合の道が垣間見えるひとつの領域として精神医学がある。精神医学は百家争鳴と言いたくなるほど、多様な理論や多彩な治療法が乱立し、学問としての統合性に著しく欠けるように思われる。しかし、それは心が単純な理解を許さない多面的で複雑なものだからというだけではなく、心の決定基盤となる脳や身体のあり方も多面的で複雑だからだと思われる。心に関わるこのような多面性・複雑性を人間存在の階層性から理解することで、精神医学に統合性をもたらすことが可能ではないだろうか。精神医学の基礎論の構築を目指して、2013年より精神科医と哲学者が集まって定期的に研究会を行ってきたが、それを通じて最近特に痛感するのは階層的人間観の必要性である。

 精神医学に限らず、真の文理融合が豊かな成果をもたらす領域では、階層的人間観が必要とされるだろう。強引な還元ではなく、かといってバラバラに探究するのでもなく、独自性を重んじつつ緊密な関係を構築するには、非還元性と付随性によって特徴づけられる階層性の考えが不可欠だと思われるのである。

信原幸弘 氏
信原幸弘 氏(のぶはら ゆきひろ)

信原幸弘(のぶはら ゆきひろ)氏のプロフィール
東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は心の哲学で、近年は、脳神経哲学、人工知能の哲学、精神医学の哲学にも取り組む。著著・編著に『ワードマップ 心の哲学』、『精神医学の科学と哲学』、『情動の哲学入門』など。現在、JST社会技術研究開発センター「人と情報のエコシステム」研究開発領域のアドバイザーを務める。

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