冷戦のさなか、太平洋での米軍の核実験による「死の灰」による被爆と水質汚染の実体を暴く。まだアジア系に対する差別も大きかった1960年代に、米国に単身で乗り込み、ハンディをものとせず米国科学者と測定競争を行い、そして勝利する。【猿橋勝子】というレジェンド—。
昨年、私は35回目の猿橋賞受賞者として選ばれ、この賞の選考・授与組織である「女性科学者に明るい未来をの会」の米沢富美子(よねざわ ふみこ)会長をはじめ、多数の先輩女性科学者たちとお会いする幸運を得た。故・猿橋勝子(さるはし かつこ)先生が創設され、はや35年。『女性科学者がおかれている状況の暗さの中に、一条の光を投じ、いくらかでも彼女らを励まし、自然科学発展に貢献できるように支援することができれば』という理念の創設だが、2016年の現在、日本の女性科学者はどれだけ増え、また社会にその貢献が認知されているのだろうか。
猿橋賞受賞後、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上で思いがけない批判を受けた。「いくら優れた科学者といっても、しょせんは女性研究者の賞でしかないし…」というものだ。猿橋先生の偉業を知らないのかと意外に感じられたが、どうやら「対象を女性科学者に限った賞はレベルが低くなり、女性にとっても失礼だ」というのが大概の反応のようだった。確かに女性研究者は絶対数が少ない。だが、実際の数以上に(数以下に)過小評価されていないだろうか。
マチルダ効果:米国の意外な現状
ここに【マチルダ効果 Matilda effect】という言葉がある。1993年に科学史研究者マーガレット・ロシター氏によって提唱された概念で、「女性科学者による貢献が過小評価されるバイアス」を指す[1]。19世紀にこの現象を報告したフェミニスト、マチルダ・ゲージ氏にちなんでつけられた。歴史的に多くの例が存在し、20世紀に入ってからも、染色体異常(ダウン症トリソミー)を発見したマルツ・ゴウティエー。DNA2重らせんを見事に捉えたX線結晶解析(フォト51)を撮影し、DNAの構造モデルに必須な貢献をしたロザリンド・フランクリンなど、大発見を行なったにもかかわらず不遇の女性科学者名が連なる。
近年の米国では理工系(STEM; Science, Technology, Engineering, Mathの略)の大卒の4割が女性(生物系では6割を占める)で、STEM女性教員も3割を占める[2]。日本の現状からはまぶしいばかりだ。そんな米国アカデミアにも【マチルダ効果】は純然と存在する。最近の研究例として、名前だけ男性(ジョン・John)か女性(ジェニファー・Jennifer)に変えただけの全く同じ履歴書を、ラボマネジャー応募書類として多数の大学のSTEM教授たちに送りつけた実験がある[3]。男性名のほうが有意に高い確率で「有能である」「採用に望ましい」という評価を受け、全く同じ履歴書であるにもかかわらず、提示された年収は、ジョンでは3万ドル、ジェニファーでは2万6千ドルという衝撃的なものだった。すなわち、女の名前というだけで、著しく過小評価を受けるのだ。
これは研究職への入り口の例だ。それでは、研究者が出す独創的な評価、すなわち研究者個人の存在を、学会や一般社会に広める重要な機会となる表彰ではどうだろう。米国のSTEMの13学会における学会賞を10数年にわたり追跡調査した最近の研究から、非常に興味深い点が見えてきた[4]。それによると、理数工系の賞の審査委員長は圧倒的に(年配の)男性科学者であり、男性の審査委員長は95%以上の確率で男性を受賞者に選ぶ。被推薦者の4分の1が女性研究者であったにもかかわらず、だ。すなわち、もしあなたの性別が男だったら、ただそれだけで受賞確率は6倍以上も高くなるのだ。
では果たしてそれは、女性の被推薦者の質が低いということなのだろうか。ところが、もし女性科学者が審査委員長であった場合には、女性研究者が受賞する確率は、なんと23%にも跳ね上がる。これこそが【マチルダ効果】の反映なのだ。
全く同じ現象は、米国生命科学・基礎医学研究の最高峰であるハワードヒューズ医学研究所(HHMI)でもみられていた。HHMIインベスティゲーター(正研究員)への選考は、かつては大学上層部からのノミネーション(推薦)により行なわれていたそうだ。その推薦制度を廃止して、公募によるコンペへ切り替えたところ、女性科学者の応募率、採用率とも25?30%に大きく上昇したそうだ。私も選ばれたHHMI-GBMF「全米で最も革新的な植物学者」15人のうち、4人(27%)が女性である。大学の総長や学部長は圧倒的に年配男性が占める。自分の組織から最も有能な若手科学者を選ぶプロセスにおいて【マチルダ効果】が働いていたと想像するのは難しくない
日本における二重のマチルダ効果
日本の女性研究者比率は主要諸国で最低レベルであるが、それでも平成25年度で14.4%。 理医薬系の女性教員は1割前後で、看護だと7割弱である[5、6]。少ないながらも、それなりの女性研究者・女性教授は存在するのである。それでは、それら研究者が顕著な表彰を受けているのか。日本学術振興会賞の過去の受賞者の性別を調べてみた。
この賞は『将来を嘱望される若手研究者を顕彰しその研究意欲を高め研究の発展を支援していく』、いわば未来のノーベル賞受賞者を発掘する賞であり、山中伸弥(やまなか しんや)教授も過去に受賞されている[7]。設立から12年の理工系と生物系の受賞者延べ221人のうち、女性受賞者はたった5人であった。わずか2%。理系女性教員、女性研究者の比率を大幅に下回っている。日本学術振興会は被推薦者の男女比を公開していないが、ここに、女性は推薦される機会が乏しく、また選考会を勝ち抜くチャンスも乏しいという【二重のマチルダ効果】の存在を垣間みる。
学会を支えてきた重鎮の男性教授たちは、無意識のうちに「若いころの自分をほうふつさせる逸材」を選んで持ち上げていないだろうか。複数の共同研究者で行なわれた研究のリーダーは男性であったと思い込んでいないだろうか。正しく女性研究者の成果を評価するには、まだまだ課題は多いのだ。
将来へ向けて:女性研究者の質そして数
では一体どうするべきなのか。米国の先行研究から効果的だと思われる対策には、選考委員会における女性研究者の割合を増やし、また女性の選考委員長も増やす。すなわちリーダーシップをとる女性研究者を育成する。身近な女性研究者で優れた人が思い浮かぶなら、できるだけ推薦の機会を提供し、応募者の男女比率が少なくとも研究者の男女比率と同等になるよう心がける(女性は自ら野心的な応募をしないという研究例もある)。選考時の【マチルダ効果】による無意識のバイアスは意識的に変えていかなければならない。その下地づくりの現在、女性に限った表彰は、優れた女性研究者を世に広めるというミッションを果たす上で、まだまだ必要なのだ。
少子高齢化の中、資源に乏しい日本が国際社会で残っていくには男女問わず多くの才能を科学技術へと生かすことが必要不可欠だ。研究者は男女問わず千種万様。1人の女性研究者が多くの選考委員を掛け持ちしたところで次世代の多様な才能発掘への貢献度は限られる。数というのは将来のイノベーションを起こす【個性の多様性】でもある。質、そして数。女性研究者への政策を考える上で【マチルダ効果】は、もっと議論され改革されていくべきものだろう。もし将来、【マチルダ効果】が過去のものとなることがあれば、女性限定の公募や表彰もその役目を終え、男女性別に関わらず科学者が独創性や実力を遺憾なく発揮できる社会が来るはずだ。
参考文献
- Rossiter, M.W. (1993) The Mattheu Matilda effect in science. Social Studies of Science. 23: 325-341.
- McCullough, L. (2011) Women's Leadership in Science, Technology, Engineering and Mathematics: Barriers to Participation. Forum on Public Policy. v2011.
- Moss-Racusin, C.A., J.F. Dovidio, V.L. Brescoll, M.J. Graham, and J. Handelsman (2012) Science faculty's subtle gender biases favor male students. Proc Natl Acad Sci U S A. 109: 16474-9.
- Lincoln, A.E. and S. Pincus (2012) The Matilda effect in science: Awards and prizes in the US, 1990s and 2000s. Social Studies of Science. 42: 307-320.
- https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h26/gaiyou/pdf/h26_gaiyou.pdf.
- https://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/mat209j/pdf/mat209j.pdf.
- https://www.jsps.go.jp/jsps-prize/.
鳥居啓子(とりい けいこ)氏プロフィール
1987年筑波大学卒。93年筑波大学大学院生物科学研究科博士課程修了。博士(理学)。日本学術振興会海外特別研究員(米イェール大学)、博士研究員(米ミシガン大学)、ワシントン大学生物学部准教授、同教授などを経て、2011年から現職。ワシントン大学幹細胞再生医療研究所のメンバー。世界トップレベル研究拠点 名古屋大学トランスフォーマティブ生命分子研究所(WPI-ITbM) 海外主任研究者、名古屋大学生命理学研究科 客員教授も。専門は植物の発生遺伝学。2011年、ハワードヒューズ医学研究所とムーア財団が選ぶ「米国の革新的な植物学者15人」の1人に唯一の日本人として選ばれた。12年American Association for the Advancement of Sciences (米科学振興協会 AAAS)フェロー、ワシントン州科学アカデミー会員。 15年井上学術賞、猿橋賞受賞、 American Society for Plant Biologist (米植物性物学会 ASPB)フェロー賞受賞。